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ドリブルからの突破

シュート完成までのドリブル

「16歳くらいまでは、ドリブルばかりしていた。現在のようにミドルシュートをするようになったのは、プロになって筋力が付き、強いシュートができるようになってからだ。もちろん、少年時代にも、点はたくさん取ったが、それはシュートを蹴り込んだのではなく、ドリブルでゴールのすぐ側まで行き、GKをもかわしていた。
 1984年1月に来日したコリンチャンスのソクラテス。ブラジル代表チームの主将であり、世界的なミッドフィルダーで、同時に優れた点取り屋の彼がこう言っていた。
 攻撃のプランナーであり、組み立て役で、ブラジルでは最も球放れのいいソクラテスが、若いときにドリブル一辺とうの選手だったという。一見、不思議なようだが、一流のプレーヤーが育っていく過程で、若いうちはドリブラーというのはごく普通の例である。

 もっともドリブルといっても、ソクラテスはジーコやマラドーナとは違う。190cmの長身で、大きいだけに急激なターンの不得手な彼は、今でも前へ行くシンプルなドリブルが多い。16歳頃までは、今よりまだ筋力も弱かっただろうから、若い頃のドリブルも、やはり、複雑なターンは無かったのだろう。そのシンプルな、いわば彼のオリジナルのドリブル、前へ進むと見せかけて止まり、止まると見せかけて前進するドリブルは、82年ワールドカップ1次リーグのブラジル−ソ連の同点ゴールによく現れている。また、2次リーグの対イタリア戦1点目で、ジーコのパスを受けて成功したドリブルシュートに、彼の若い頃からの突破の巧さと成長してから身についたシュートの冷静さが、見事に組み合わされていた。

 釜本邦茂というストライカーも、軽妙なステップで周囲を感心させると言ったタイプのドリブラーではない。しかし、彼はボールを受けて、自分の目指すシュート地点へ進むことができる。相手の妨害を突破し、追走を振り切り、シュートを完成させるための優れたドリブルを身に付けている。
 私たちは、日本リーグで、国際試合で、釜本のドリブルによる突破と、それに続くシュートによるエキサイティングゴールを幾つも見てきた。それはまた、彼のヘディングによる豪快なゴール、胸のトラッピングからのシュートによるビューティフルゴールと共に、私たちの頭の中にいつまでも残っている。
 この項はその中から、若く、はつらつとした1968年と、老熟期の1979年のそれぞれの、右サイドからのドリブルシュートを採り上げてみた。


≪釜本の証言≫
 サッカーはチームゲームで、ボールを動かせる方が、一人でムリをするよりはずっと効果的だ。
 しかし、周りに味方がおらず10メートル前進すればシュートのチャンスを掴める。あるいは30メートル行けば得点へ繋がるとなれば、当然一人で突破すること──ドリブルすることも必要だ。ドリブルで突破するためにはプレーヤーは、それぞれ自分に合ったボールの持ち方や相手との間合いを考え、フェイントを工夫する。ボクは岡野さんのアドバイスで学生の頃にスタンレー・マシューズ型のフェイントを取り入れてみた。どんなやり方をしても大切なのは、相手とこういう格好になったら絶対に勝てる、必ず抜けるという形を作ることだ。そのためには練習を繰り返し、自分の間合いを掴むことだ。
 ボクはそんなにたくさんのフェイントや相手のかわし方を持っていたわけじゃないが、絶対に取られないという型を持っていたからボールを持って相手に対したときも、余裕があり、それが次の展開にプラスになっていた。


歴史を作ったフランス戦での釜本のドリブルシュート

1968年10月20日
第19回オリンピック・メキシコ大会準々決勝(アステカ・スタジアム)
日本3−1フランス(前半1−0)
25分、左サイドの小城から右にいた釜本にクロスが通り、釜本はペナルティーエリアの右外側からドリブルで侵入、ゴールエリア右角(ゴールラインに寄ったところ)近くからシュート。ボールはGKリブルの左手側を抜いてゴールに飛び込み1−0と日本リード

 1次リーグで3戦1勝2分け(得点4、失点2)。B組の2位となってベスト8に進出した日本は、A組1位のフランスと対戦した。フランスは1次リーグで、

 ○3−1 ケニア
 ○4−1 メキシコ
 ●1−2 コロンビア

 と2勝1敗、得点8、失点4、ベスト4への有力候補だった。
 日本ではその頃、フランス・サッカーについての知識は少なかったが、「ラ・スルー(皮製ボールのこと)」と呼ばれる古代フットボールが、中世に大いに普及したところ、ワールドカップ創設者のジュール・リメを生み出した国。古さと、新しさの備わったサッカー国だった。もちろん試合前に日本が勝つと予想した者は、ほとんどおらず、3−1の勝利は世界を驚かせ、デットマール・クラーマーは「歴史が作られた」と、感激した。釜本邦茂選手のドリブルシュートのこの得点は、いわば歴史を作った先制ゴールと言える。


右45度につながるドリブル

 このドリブルシュートのポイントは、
 (1)左から小城がクロスボールを送り、右の釜本が受けたこと。
 (2)ペナルティーエリア右角へ侵入していく釜本が、相手DFをかわした後で、バランスを崩しながら体を立て直して直進し、
 (3)2人のDFが内側からタックルに入る寸前に右足でシュートした。
 (4)釜本の侵入コースと、ゴール正面へ、ノーマークで現れた渡辺で、相手のGKは渡辺へのパスと読んだらしく、2歩ばかり右側へ動いた。
 (5)その左手側を釜本のシュートボールが斜めに走った。GKの読みには、あるいは2人のDFのタックルでゴールシュートのコースを消せる。そして、自らはパスのコースを警戒したのかも知れない。ただし、もしそうなら、それは釜本の右足の振りの早さを知らなかったと言えるだろう。

 このときの釜本は、24歳6ヶ月、早稲田を出てヤンマーに入って、1年7ヶ月。その間にメキシコ五輪アジア地区予選、西ドイツへの留学、メキシコ・豪州への遠征、ヨーロッパ遠征、2年目の日本リーグ前期などを経ていた。日本代表としては64年東京オリンピックから4年のキャリアを積んでいた。肉体的に盛期にあり、瞬発力もすごく、復元力は驚くほどだった。
 彼のドリブルの基礎となるボールタッチ、右足のインサイド、アウトサイドの使い分けで、既に早稲田の頃に、マシューズ型のフェイント(左前へ行くと見せかけ右前へ出る)を身に付け、右前へ出る早さが際だっていて、効果を上げていた。また、右サイドへ開いてボールを受け、そこから一気にゴールへ突進するコースは日本リーグでも、五輪予選でも成功していた。右オープンスペースを突き進み、中へ(左前へ)入ると見せて縦に(右前に)突進し、縦へ出てから左側へ(ゴールに)向かって斜行する彼のドリブルは、その早さと、タイミングの取り方、シュートへ持っていくコースのうまさで相手の脅威となった。

 1968年1月、東京での対西ドイツ・アマチュア選抜戦では彼の右サイドからの突破が、西ドイツの守りを混乱させた。
 右前へ出ることは、彼にとっては得意の右45度のシュート角度へ入れることであり、もし中へのカットインが出来なくて、ゴールライン近くまで深く入り込んでも、ゴールライン上からのクロスパスも、角度のないところからのシュートも、自在に蹴れる自信を持っていた。したがって右サイドからニアポストへの侵入はスピードを殺すことなくできていた。


自分の型へのアプローチ!

 西ドイツ留学でボールを受ける前に相手のマークを外すこと、いったんオープンに開くことを身に付けたのもドリブルシュートの成功にプラスになっていた。
 フランス戦では1点目のドリブルシュートの他に2点目に杉山からのクロスを胸で止めてシュートを決めているが、このときもいったん、右サイドへ戻ってパスを受けている。また、3点目は、釜本が右サイドから縦にドリブルしてゴールラインから中へ返し、渡辺が決めている。いわばゴール前の右45度のスペースと同じように右サイドの縦スペースはこの時期の釜本にとって、最も動きやすい花道であった。
 釜本がストライカーとして優れている大きなポイントは、こういう風に自分のシュートの型を生かすために、そのアプローチを作り上げることにあった。闇雲にボールを持ってウロウロするのではなく、どこでシュートをするか予想し、そこへボールを持っていくことを計算できたことだ。フランス戦のドリブルシュートの成功は、直接には彼のスピード、復元力、ボールタッチ、それに仲間の協力の集積と言えるが、何よりドリブルで突破するとき、目前の相手のことだけでなく次に自分がどこでシュートをするのかを読む彼のストライカー適性が大きいと思う。


右サイドを突破、ゴール右上隅に決めた見事な得点

1979年10月10日
ゼロックススーパー・サッカー第1戦(神戸御崎)
日本リーグ選抜1−1コスモス(前半0−1)
84分(後半39分)右サイドでボールを受けた釜本がマークのライアンと併走してゴールエリア近くで振り切り、カルロス・アルベルトがタックルに来る前に強烈なシュートをゴール右上隅に決めて1−1とした

 1979年の日本サッカー界はワールドユースの開催が最大の話題だった。日本のユース代表は2年に及ぶ強化練習を踏みながら1次リーグで敗退し、依然としてボールテクニックで同じ年齢層の若者に劣ることが明らかになった。大会の決勝ではマラドーナ(アルゼンチン)の技術に大観衆が酔い、78年のワールドカップ優勝に続くアルゼンチンのユース優勝で、高速ドリブルを基盤とするアルゼンチンの技巧が注目され、南米の欧州に対する優位が改めて実証された。そういう時期に日本リーグ選抜というチームが編成され、リーグ所属の外国選手、与那城、マリーニョ、カルバリオ、ラモスらが加わり日本代表とは一味違ったプレーヤーの集団が生まれ、77年に日本代表を退いた釜本も入っていた。
 リーグ選抜は79年6月9日に韓国農協(韓国実業団優勝)と試合して2−0。8月13日にFCアムステルダムに4−2で勝って2戦2勝でコスモス戦に臨んでいた。
 コスモスは77年にペレが引退した後ベッケンバウアー、カルロス・アルベルトを中軸にキナーリャ、ボギチェビッチ、ニースケンスなどイタリア、ユーゴスラビア、オランダのワールドカップ代表ら一流どころを集め、北米サッカーリーグで人気、実力ナンバーワンと言われていた。


相手を飲み込む自信の態度

 ゲームは膝の故障の回復したベッケンバウアーが久しぶりに完璧に近いプレーを日本のファンに披露し、リーグ選抜のブラジル人達も南米流のドリブルで相手を悩ましたが、ハイライトは釜本の同点ゴールだった。
 釜本が、右サイドでドリブルして若いDFライアンと併走しながら、タックルのチャンスを与えず、止まると見せて縦に出てライアンを振り切り、コースを押さえに出てきたカルロス・アルベルトを後目に強烈なシュートを右上隅に決めた。日本代表を退いて78年からヤンマーの監督兼任となった釜本は、この頃、決してコンディションは完璧ではなかったが、同点ゴールは久しぶりに釜本らしい豪快なシュートだった。右の狭い角度から逆サイドネットを狙うシュートも正確だが、ニアポストの天上へ突き刺さるシュートは豪快で、見る者を喜ばせる。すでに、かつてのスピードや体の切れに衰えを見せていた釜本だったが、アメリカ人の若いプロ、ライアンに対し緩急の差の大きいドリブルで悩まし、最後にスピードで振り切り、その勢いをボールに乗せてシュートに持っていったところは、やはり円熟、年季の入ったプレーだった。
 特にボールを持ったときに相手を飲んでかかる姿勢、自信満々の態度は若いライアンを引きずり込み、自分の手の内に入れていた。試合の後で、コスモスのコーチ、マッセイ博士が「あのゴールは全くグレート。カマモトとライアンのキャリアの差が出た。カマモトはなぜ日本代表を引退したのか分からない」と、言っていた。
 右サイドの得意のコースに入ってきたときの釜本は、35歳になっても、なお独力で突破し、ゴールを落とす力と技を持っていることを示した。


≪釜本の証言≫
 右へ行く格好をして左へ行くといった見せかけをフェイントという風に受け取られているが、ボクはサッカーのように相手のある競技はすべてにフェイントがあると思う。
 ボールを持ったときに、その格好だけで相手に「これは手強いぞ」と思わせるのも、一種のフェイントと言える。
 相当な技術を持っていながら、ボールを受けたときに、相手にバンバン当たられはしないかと気にしていたら、相手はカサにかかってやって来る。気分的に相手に飲まれてしまうのだ。
 初めての相手に当たるときなどは、いきなりこちらのいい形に持っていって相手を困らせ、脅しをかけるのも一つの手だ。
 サッカーのような技術とともに、大敵、格闘の要素を持っている競技では、図々しく行くのがいいと思う。
 むろん、その裏付けとなるための技術を積み上げることも大切だが……。


(サッカーマガジン 1984年5月1日号)

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