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“消える”ということ

強く、しかもクレバーな釜本!

 1984年1月に来日したブラジルのコリンチャンスは、全く練習不足で体が利かない上に、例年とは桁外れの寒気のため(34度という夏のブラジルからやって来た彼らには大きなハンデとなり)評判倒れに終わった。おかげで、日本代表チームにとっては、いい練習相手となり、オリンピック予選に向かってのチームの整備には随分役立った。

 そんなコリンチャンスにあってもソクラテスのプレーは、さすがに味わいがあった。中でも、神戸での彼のゴールは、いかにもソクラテスらしいものだった。これは、コリンチャンスが、左から右へと揺さぶった後、左へ開いたソクラテスにパスが出て、彼がノーマークとなって、左ペナルティーエリアから持ち込み、右足インサイドでシュートを決めたものだが、そのパスを受ける前に、彼がゴール正面から、左へ移動したのを見ながら、私は一瞬「ああ、上手く消えたな」と思ったものだ。
 ボールが右へ流れ、更に左からコリンチャンスの一人が中へ食い込んできたタイミングで、日本の守りの視線は全部、右サイド(守りから言えば左サイド)へのボールと相手に移ったとき、ソクラテスは、サァーっと、左へ移動した。いや、それはサァーっとと言うより、スタスタと言う感じだったが、いかにも、オレは、背とは関係がないんだ、と言わんばかりの格好、いわば、主戦場から離脱してゆくような動作だった。
(もしあれが、ここでボールを受けよう、という意志を示しながら、力強く、あるいは、鋭く動いたのなら、ディフェンダーは、ソクラテスの動きに、あるいは、力強さに、何か気配を感じて、ソクラテスが左サイド(守りから言えば右サイド)のオープンスペースへ行ったゾ──と察知できる筈だが、何気なく、知らん振りで移動したために、日本のディフェンダーは、彼の気配を掴めなかったと思う)
 そして、次にボールが出てきたとき、全くノーマークのソクラテスに、皆が気付いたのだった。
 ブラジルにも“消える”名人がいたか、と僕は面白かった。

 相手のガチガチのマークを跳ね返してシュートへ持ってゆくのも、いいストライカーなら、ディフェンダーを煙に巻いて、消えておいてから、いい位置でシュートの体勢に入るのも、いいストライカーだ。
 釜本邦茂というストライカーは、厳しいマークやタックルを跳ね返しても得点できる「ストロング」なストライカーだったが、同時に、ボールを受ける前に工夫をし、相手のマークを外し、ずらして、シュートを成功させた「クレバー」なストライカーでもあった。その前の仕掛けの中に、ソクラテスと同じように、相手の視野から“消える”動きがいろんなゴールの中に見られたのだった。


≪釜本の証言≫
 大先輩の川本さんから、ある時“消える”という言葉を聞いた。初めは、何のことか、よく分からなかったが、なかなか含蓄のある言葉と知った。
 僕がまだ学生の頃に来日したソ連のトルペド・モスクワにワレンチン・イワノフという名選手がいた。1962年チリでのワールドカップのソ連代表で、それが後で、やはり“消える”名人と聞いた。実際には彼のプレーはあまり覚えていないが……。
 シュートのポジションに入ってゆく前に、一度、相手の視野から消えておけば、有利だということだが、そのためにどうするのか、となると見当がつかなかったが、いろんなことを考えている内に、フランス戦の2点目に杉山さんからパスを貰ったときのことを思い出した。あのときは確か、一度外へ出て、そしてゴール正面へ入っていたのだ。
 それが、相手の視野から消える動きに繋がったのだなと理解した。
 無意識のうちに、僕は消えておいて、シュートチャンスに入っていったという訳だろう。


知らずに“消える”ことを会得した大事なフランス戦

1968年10月20日
第19回オリンピック・メキシコ大会 準々決勝(アステカ・スタジアム)
日本対フランス 59分(後半14分)

 1次リーグを1勝2引き分けでB組2位となった日本はA組1位(2勝1敗)のフランスと準々決勝で対戦。前半25分に釜本が右サイドからのドリブルシュートを決めて1−0、30分にシャルルのヘディングで1−1となった。フランスチームは4FBの非常にはっきりしたディフェンスラインをとって、相手の攻撃のときにオフサイドラップにかかる。
(フランスではこのタイプの守備が多く、私が1977年に見たフランスのトップリーグ、サンテチエンヌ対ニースの試合でも、両方のディフェンスが、どんどん前進をして、ひどいときには、25ヤードのラインから、ハーフラインの間の地域に、双方から20人が入ってくる、といった場合も見られ、相手側の守備戦の裏へ、どんなスルーパスを出すかが、見所になっていた)

 日本代表チームは、このフランスの守りを破るために、カベパスやスルーパスによる両翼からの突破よりも、クロスパスを、ストッパーとFBの裏側に通し、逆サイドが斜めに走り込む方法を考えていた。それも中盤でゆっくり回すとストライカーがオフサイドトラップにかかりやすいので、早めに出す注意が必要だった。

 日本の2点目。勝ち越しのゴールは、左サイドの杉山がボールをキープした後クロスパスを出し、釜本が相手のストッパーの背後で、胸で止めて下へ落とし、右足のシュート。ハーフボレーで蹴られたボールは押さえが効いていて、素晴らしい勢いでゴール右に飛び込んだ(図1)。
 この得点は日本の初のオリンピックベスト4進出を決める重要なステップとなったのだが、杉山・釜本の芸術的なコンビプレーの生んだ見事な「棋譜」でもあった。そしてまた、ボールを受ける前の釜本の動きに“消える”動きがあった点で、特に印象の強い得点でもあった。
 もちろん、この得点シーンは、まず(1)杉山の正確なクロスパス(2)釜本の胸のトラップの巧さ(3)それに続く早い右足の振りによる強くて正確なシュート、といったボールに対する技術の確かさが組み合わされているのだが、(4)杉山からのパスを受ける前に、釜本がいったん右へ開いて、そこから、彼のマーク役の背後に現れた、ボールを受ける前の動きを見逃すことは出来ない。釜本が右へ開いたことによって、ボールを持つ杉山の方に注目していた相手のCBは、一瞬釜本を見失っていた。つまり釜本は相手から「消えて」いた筈だ。ために、釜本が胸でトラッピングしたときには、彼とゴールとの間にはGKデシオしかいなかった。


相手の視野から“消える”!

“消える”という言い方をよく使ったのは、ベルリン・オリンピック(1936年)の日本代表CF(センターフォワード)でシュートの名人と言われた川本泰三氏(関西サッカー協会会長)だった。今の日本リーグ総務主事・高橋英辰さんによると、高橋さんこと「ロクさん」が早稲田へ入った頃、練習中に、上級生の川本さんから「消えろ」と言われて面食らったそうだ。
 ストッパー(普通はCB)に、いつも監視されていたCFにとって、どうして、相手のマークを外すかは、大きな課題だった。ボールをきっちり受け取ってしまえば、フットワーク、ドリブルに自信のあった“名人”に対して、相手のデフェンダーはボールを「受ける瞬間」を狙って、厳しく監視していた。その頃のエピソードに、試合中にタッチ際で“名人”が靴の紐を結んでいたら、そのときにも、相手のFBが側についていた、と言うのがある。
(1974年のワールドカップでオランダのゲームメーカー、ヨハン・クライフをマークした東ドイツの選手は、クライフがタッチラインの外へ出て、靴を履き直していたときも、タッチラインの側にいてクライフを監視していた。また、いつも、相手の密着マークに悩まされたジョージ・ベストは、ハーフタイムで便所にいったら、さすがの相手も付いて来ていなかった──と言っている)

 そんな相手の監視から消えるために“名人”は、いろんな手を工夫したが、釜本邦茂選手も、得点するためには、いったん相手の守りの「視野から消える」ことの得策に気が付き、工夫するようになる。
 このフランス戦の得点は、釜本自身は意識して作った。「消える動き」ではなかったらしいが、のちに、自分で「あのフランス戦の2点目の動きが、消えるのに有効だった」と気が付く。

 マークする側から言えば、ディフェンダーは、釜本を監視しながら、彼を自分のレンジ(守備範囲)の内に入れ、同時に、ボールの動きを見なければならない。このため、最も守りやすいのは、ボールと釜本を、同時に視野に入れておくことだ(図2)。図例の2のようであれば、B選手は釜本とボールを両方、視野に入れておける。
 それが例(図3)になるとボールと釜本を同じ視野に入れるのは(図2)より難しくなる。
(そのため攻撃時は、クロスを出すとき、できるだけ、相手DFラインと並行にできるようにする。ここに、ゴールライン近くまでボールを持ち込む、一つの理由がある)

 もっとも、熟練したディフェンダーにとって、ボールと釜本を、90度の視野で捕らえるのは、そう難しくない。これは熟練した戦闘機乗りの視野が広いのと同じことだ。しかし、もし釜本が例(図4)の釜本(1)のような位置におればBにとっては、捕らえにくくなる。Bは釜本を見るためにはボールが出てくる瞬間を見ることができないし、ボールを見るためには、釜本(1)の動きを確認できなくなる。
(普通は、釜本の位置を見ておいて、ボールを見るという手順になるが)

 この(図4)のような関係を作り出し、相手から“消える”動きができるようになれば、得点力は大きく増加する。
 このフランス戦の2点目は、杉山が、相手FBに向かってドリブルし、FBは飛び込まずに、じりじり待ち受けているとき、釜本は、いったん右に開いて、自分の主戦場から離れ、相手のマークから外れておいて、その後で、中へ動いて、杉山からのパスを受けたのだった。
 杉山と、FBとの駆け引きを注視し、ボールに目を集中していたフランスのDFは、釜本を視野から見失い、次いで釜本を“発見”したときは、既にシュートの体勢に入っていたわけだ。
 この頃の釜本は、まだ自分自身で“消える”と言う考え方はなかったようだが、後に「あの得点のときが“消える”と言うことになる」と納得したそうだ。

 1964年1月〜2月の西ドイツでの留学の後、釜本が大きな進歩を見せたことは既に触れたが、幾つかの技術の進歩の中で、ボールを貰う前の動きの良くなっていることが注目されていた。
 日本国内ではボールを受けるタイミングや場所を相手に予測され、そこを妨害されても、強く、バランスの取れた体と、ボールテクニックでそれを押し切っていたが、西ドイツでは若手の代表選手と一緒に練習し、やはり、ボールを受ける前にいい位置へ出て、優位に立つコツを覚えるようになった(まだ“消える”ところまでには行かなかった)。
 そうした工夫が、フランス戦に現れた“消える”に繋がったものと推察できる。
 ボールを受ける前に、受ける予測地点とは違うところへ行っておいてから、ボールを受ける地点へ入って来る──フランス戦で、釜本は“消える”ための単純な法則を描いて見せた。


ボールを受けるための抜群のタイミングとコース取り

1974年10月20日
日本リーグ 対三菱(東京・国立競技場)

 メキシコ・オリンピック(1968年)の得点王となった釜本が、翌年、肝臓障害で、しばらく回復に時を要したのは、これまでにも述べた。
 この病いを抱えながら、彼は徐々に体調を戻し、74年にはヤンマーを2度目のリーグ優勝に持ってゆくと同時に、リーグ通算の100ゴールを達成する。その記録を作った試合が、この三菱戦、リーグの後期2試合目だった。

 この夏、釜本は日本代表と共にヨーロッパを転戦し、その間に西ドイツでワールドカップを観戦し大きな刺激を受けたらしい。後期第1戦の対トヨタで4ゴール(8−0)、強敵三菱から2ゴール(3−1)を挙げている。この2点目(51分)がリーグ通算の100得点(108試合)になる。

 左サイドを早いドリブルで進んだ堀井が、スピードに乗った勢いを、そのままに、ライナーのクロスをゴール前へ出し、釜本がヘディングで決めた──このゴールは、まず、 (1)ハーフラインから吉村、阿部とヤンマーのパスが左へ、早く展開したこと
(2)パスを受けた堀井が相手DFをすれ違うように抜いて出て
(3)そこで、余分な時間を経ないで(持ちすぎないで)クロスを入れたこと──がまず、伏線になっていた。

 ここまで、ヤンマーの攻めに、全く関係していなかった釜本が、最終の場面に現れるわけだが、ボールが左へ流れ斉藤が堀井の方に集中する。DFを振りきった堀井が斜めに入って来るのか、パスを出すのか、DFラインの中枢にいる落合とすれば当然のことだ。そのときに釜本はちょっと自分のコースを落合の背後に取り、堀井のクロスが飛んだときには、落合の後方から斜めに走り抜けるような感じで、ボールに合わせていった。いわば一瞬、落合の前から消えた釜本が、次に主戦場へ現れたのだ。
「あのゴールは、釜本を誉めるべきだ(三菱・二宮監督)」という当時の談話は、この釜本のいったん「タメ」ておいて飛び出す、タイミングとコースの巧さを評したものといえる。


仲間のサポートも重要だ!

 この釜本の99点目のゴールは、私には、その後(翌年だったが、翌々年だったか)テレビ・ニュースでクラーマー監督のバイエルン・ミュンヘンと、リーズ・ユナイテッドとのヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ決勝を見たとき、ゲルト・ミュラーのゴールに共通点を見出して楽しかったのを覚えている。
 押し込まれていたバイエルンがアウェーで2点を奪うのだが、その1点は、右サイドからタッチ際に攻め上がって、リーズのゴール、ニアポストへグラウンダーのクロスが出る。リーズのゴールキーパーが取るものだと、誰もが思ったとき、突然、ゲルト・ミュラーが現れて、ゴールキーパーの前をかっさらうようにしてボールを蹴り、ゴールを奪ったのだった。
 右サイドから、速いスピードで攻撃が展開されているときに、中央でG・ミュラーは、一旦、動きを貯めておいて(おそらく一瞬、間を遅らせて)、右サイドのボールを注意(DF側からは左側の)しているリーズDFの視界から、全く消えた後、突如として、彼らの鼻先に現れたのだった。

 ワールドカップやそのほか重要な場面でゴールを重ねてきたG・ミュラーは、そのシュートの質や、体の使い方(ターン)などでは、全く釜本とは異質だが、密着マークに強いという点では変わりない。
 そして、ガチガチのマークをはね除ける力強さと同じように、相手のマークから消えてしまう、という工夫をしているところも、釜本とミュラーは共通だった。
 偉大なストライカーは、それぞれの個性の上に立ちながら、ゴールを奪うために、ときには、相手の注視の真っ直中で、時には、相手がアッと驚くように、不意に現れてプレーできるものなのだ。
 もちろん、それには味方の協力が必要なのは言うまでもない。
 ストライカーが“消える”のをサポートするのも、また仲間のパスの能力、キープの能力でもある。

 1981年11月1日、神戸中央球技場での日本リーグ、対本田戦34分に釜本はリーグ通算200ゴールを記録しているが、このときは左サイドにいた楚輪がドリブルで前進し、ゴールライン近く10メートル辺りから中へパスを送り、このグラウンダー釜本が止めて左足で鮮やかにシュートした。
 左サイドで今村−楚輪とプレーが展開されている間に、釜本は、いったん、ゴール正面よりも、やや右へ動いておいて、楚輪のグラウンダーが来るときに、中央から左へ流れるように動いている。シュートのチャンスの前に、反対サイドへ動き、相手の視野に入りにくくしていたのである。


≪釜本の証言≫
 消えることを考え始めた頃は、いろいろやってみた。ハーフに下がってプレーもしてみた。しかし、どこにいても(国内の試合では)僕は相手にマークされる。場所の問題ではなかった。
 味方のキープするボールの位置と僕のポジション、そして、ポジションから次のポジションへゆく、コースとタイミングの取り方と知った。
 簡単に言えば、シュートのポジションへ入ってゆく前に、ちょっと他へ行ってみることだと解釈した。
 もっとも、これは僕の解釈で、また、僕が成功した消え方でもあるけれど、これが他の人に当てはまるかどうか、それは分からない。
 それぞれのプレーヤーは持ち味があり、得意、不得意がある。そしてチームメイトの力にもそれぞれ違いがある。だからプレーヤーは自分のプレーは自分の解釈で、自分の動作で解釈しなくてはならない。


(サッカーマガジン 1984年6月1日号)

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