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ロングシュート

ロサンジェルス五輪アジア・オセアニア2次予選

 シンガポールのロス五輪アジア・オセアニア2次予選はまことに残念だった。森監督や選手達、長い間一つの目標に向かって精進してきた彼らには、まことに不本意で、辛い結果となったのだが、彼らが、今まで続けてきた努力は一人ひとりの体に残っているハズだ。プレーヤーやチームが、一つの階段を越えるとき、何かのきっかけで、北国の春のように、一気に花が開くものだ。ただし、そのためには、努力の積み重ね、技術や体力が蓄積されてゆく時間が必要だ。1984年4月の大切な時期に、これまでの努力を実らせることが出来なかったのは、まことに惜しいし、それには、理由もあるはずだが、選手の一人ひとりにとっては、ロス五輪予選は、サッカー人生の中での貴重な経験を得たと思う。
 負けた試合によって、ディフェンスの失敗や、個人やチームの技術、戦術の大事なポイントがいくつか指摘されることになるが、それを踏み台にして一歩前進してほしい。
 サッカーという、面白い競技を志し、日本のトップに立ったプレーヤー達が、完敗のショックや、周囲の批判の合唱の中でくじけず、次のチャンスに、いいプレーを見せてほしいと思う。

 釜本邦茂選手が実際に試合で演じたプレーを取り上げている「ストライカーの技術講座」は、彼のロングシュートあるいはミドルシュートを考えてみよう。
 遠くからゴールを狙う力が有るか無いかは、単に個人の得点力アップという点だけでなく、チームの戦術にも大きな影響を与える。
 シュートレンジが広いということは、相手の最終防御線を前へ引き出すことであり、GKと守備線との間にスペースを作り、守備線の裏へ、決定的なパスを通すことが出来るということだ。
 ロスへのオリンピック予選でも、(それがすべてでないにしても)ロングシュートができたなら、もっと楽な場面もあったと思う。

 釜本選手の講座はこの項でひとまず終わりにしたいが、最後に言っておきたいのは、彼のような天分に恵まれたプレーヤーでも、何度も波があった。肝炎のような難病や、足の故障もあったし、スピードや力の衰えを感じ始めた苦しみもあった。そんないろいろな障害や、沈みを乗り越えて、長い間、いいプレーを続けたのは、ひとえにサッカーを愛したこと、人に負けまいと頑張ったこと、自分で考え、工夫してプレーしたこと、そして、若い伸び盛りの時期を失うことなく、トレーニングを積んで基礎を固めたことにあった。
 若いプレーヤー達も、彼のキャリアを眺め、参考にして(彼とは別の個性であっても)それぞれの素質の花を開き、長く咲かせてほしいものだ。


組織ディフェンスを打ち破るロングシュートの破壊力

1968年10月14日
メキシコ五輪B組リーグ 日本3−1ナイジェリア(1−1、2−0)
24分、杉山−八重樫と渡り、八重樫の左からのクロスを、釜本がヘディング、1−0。33分にナイジェリアが決めて1−1。後半FKから八重樫−杉山−釜本と渡り、釜本のダイレクトシュートで2−1、試合終了直前、釜本のロングシュートが決まって3−1

 日本サッカーの歴史に輝くオリンピックでの3位入賞、そのメキシコでの第1戦の対ナイジェリアで彼は3ゴールを挙げたが、その3点目がこの項のテーマのロングシュートだった。
 日本チームは、2−1とリードした後、足を痛めた八重樫を桑原楽之に代え、釜本はHBのポジションにいた。タイムアップ直前に、ナイジェリアGKフレセンがボールを持って蹴ったのが短くて、センターサークル付近にいた釜本が取った。取った釜本はそのまま右斜めへドリブル(3歩ぐらいか)してゴールめがけて、ズバッと蹴った。ボールは素晴らしいスピードでゴール左上隅に突き刺すように飛び込んだ。

 この年の釜本は、68年1月〜2月の西ドイツ・ザールブリュッケンでの留学を経て、いよいよプレーに速さと鋭さが付いた。得意の右足の振りは速さ、ボールを止めてからシュートの体勢に入る一連の動作がスムーズになったのと合わせて、「いい形でボールを持ったら、何処からでもシュートを打つ」というストライカーの理想に近づいていた。
 1968年度のヨーロッパ遠征では、7月24日、オデッサでの対チェルノモーリエッツ戦で、後半28分に、ハーフライン近くから短くドリブルし、35メートルのロングシュートを見事に決めている。
 いわばナイジェリア戦のゴールもこの対チェルノモーリエッツのロングシュートと同じ「棋譜」に属するものと言えるだろう。
 ナイジェリア戦の後で、彼は、「タイムアップも近かったことでもあるし、ボールをなるだけ遠くへ(味方ゴールから)やっておけと思ったのです。」と言っていたが、ドリブルし、得意の右シュートの形に入れば、彼がやたらにボカーンと蹴るはずはない。とにかく遠くへ、といった(頭の中のどこかにあった)意識とは全く別の、ビューンとうなりを生じたシュートが、右足から繰り出されたのだった。
 このときの新聞によると、スタンドが驚きの声を挙げたのは、ボールがネットに当たって、下へ落ちて、しばらくしてからだったそうだ。彼のシュートのスピードを知る者には、うなずけるエピソードだ。

 この35メートルとも40メートルとも言われる檜舞台でのロングシュートを語るとき、私は、1978年ワールドカップの、あのオランダ代表チームのアーリー・ハーンのロングシュートを思い出す。
 大会の第2次リーグでイタリアの固い組織ディフェンスの中に侵入できなかったオランダが2−1で勝って決勝へ進んだのは、ひとえに、ブランツのミドルシュート、ハーンのロングシュートのお陰だと言っていい。
 言い換えれば安定した防御ラインを引いて相手になかなか得点を許さないイタリアを、たった2発の「長蹴」が崩したのだから、ロングシュートの威力、破壊力は恐るべきものがある。
 ハーンは2次リーグの対西ドイツでも25メートルのシュートを決めていて、ハーフラインを越えて、自分のいい形になればシュートを打つという気配が、どの試合でも見えていた。そういえば、この大会でのオランダは、74年ワールドカップのメンバーからクライフが抜けたため、攻め方は単調だったがレップやブランツ、ファンデケルクホフ兄弟などの強いシューターがいて、長蹴力での決勝進出と言えた。


正確で、しかも強い球!

 釜本の40メートル近いロングシュートは日本リーグなどでは、あまり見ていない。それでも25メートルクラスは何度もあった。
 もともと、強い球を正確に蹴るということにかけては、日本の誰よりも優れている。いや、国際レベルでもそうざらにはいない選手だから、長いシュートを狙えるわけだが、その前提として、やはり自分の一番得意な形に入れるかどうかである。味方の動き、敵の配置によって、自分の「形」へ持っていけるスペースが作れるかどうかによる。
 1976年2月15日の対FCリエカ(ユーゴスラビア)戦で20メートルのミドルシュートを決めているが、このときの写真を見ても、彼が自分の得意の形に入ってシュートしているところがよく分かる。


≪釜本の証言≫
 ナイジェリア戦でのロングシュートは、確か、センターサークル辺りでボールを拾ってからだと覚えている。試合も終わりに近かったから、まあ、遠くへ蹴っておけ、といった気楽な気持ちだったが、ドリブルして蹴るとき、自分の得意の形(右へ持ち出して)になっていたから、自然にぱっと右足で叩いたのだと思う。
 オデッサでのロングシュートは雨の試合で、これもハーフライン辺りからドリブルしてシュートした。ナイジェリアの時とは違って低いボールで、それがGKの前でバウンドして、ピューッと滑るようにスピードを増してゴールへ飛び込んだ。
 長いシュートは、やはり、「当たっている」というのか、試合中に自分の気分が乗っているときに出る。自分のシュートのフィーリングは、今日はいいぞ、というようなときは、やはり思い切りが良くなっているのだろう。
 もちろん、いつもゴールを狙うという気持ちがあるのは当然だが……。


アジアでの名声を不動としたムルデカの神話のゴール

日本4−1カンボジア(0−0、4−1)
後半5分、釜本の低いロングシュートが40メートル飛んでゴールへ。1−0。後半20分、高田のセンタリングを釜本がゴールを背にしてジャンプしてオーバーヘッドのシュート、2−0。25分、釜本のヘディングで3−0。36分、3−1。44分に釜本が中央突破して4−1

 以前に上映された『勝利への脱出』という捕虜収容所とサッカーを題材にしたハリウッド映画があり、ペレやアルディレスやボビー・ムーアなど、OB、現役の名プレーヤーが出演した。
 そのクライマックスのサッカー・シーン。第2次大戦でドイツ側に捕らえられた連合軍の捕虜の選抜チームと、ドイツ代表チームとの対戦で、ペレがオーバーヘッド・シュートでゴールを挙げる場面があった。
 ゴールを背にして、ジャンプし、上体を後ろへ倒すオーバーヘッドのシュートは、見た目にも鮮やかで、エキサイティングだが、実際には、さあ、やってくれと言われて、そんなにピシャリとゴールへ叩き込める(ゴールキーパーもいる)ものではない。
 偉大なペレでさえ、映画のこのシュートのために、何回も撮影し直したそうだ。
 シュートの名手、釜本邦茂選手にも、オーバーヘッド・シュートの得点の記録は他にない。

 1972年という年は、彼が69年の肝炎から見事に立ち直り、再び元気なプレーを演じた「復活の時」だった。
 日本代表はミュンヘン五輪予選で敗退し、メキシコ五輪組が大幅に退き、小城、山口、釜本らを軸に奥寺や永井という若手が加わっていた。いわば、この年のムルデカ大会は新しい日本代表の出発であり、また、新旧メンバーの強調によってアジアでのタイトル獲得を狙った大会でもあった。
 結果は、Aグループリーグで2位となり、準決勝に進んだ韓国に3−0で負け、3位決定でマレーシアBに勝って3位となった(優勝・韓国2−1マレーシアA)。
 暑熱の中での日本式サッカーは試合を重ねる毎に疲れ、チーム力が大幅に低下する。それまでの、そして、その後にも続くパターンだったが、それはともかく、既に東南アジアで有名になっていた釜本は、この大会のエキサイティングなゴールで、更にその評価を高めたのだった。

 カンボジア戦のゴールは写真で見る通り、典型的なオーバーヘッドキックだが、これの成功には、もちろん、彼の言う「乗っている」時であったことが第一。そして、基礎となるのは[1]ボールの高さ、早さを見極める判断力(ヘディングの際にいつも光る)[2]ボールに対する正確なインパクト[3]そのための的確な姿勢[4]そして、最後までボールを見る目──といったボールを蹴る基本的条件が、日頃から揃っていることだ。


ペレのイメージを自ら拡大

 マレーシア戦での胸のトラッピングからオーバーヘッド・シュートは、胸で一度ボールを浮かせておいて、それをオーバーヘッド・キックで叩き込んだもの。
 このシュートを、私は実際には見ていないが、ゴールを背にして胸でボールを弾ませた彼の頭のどこかに、この大会の1ヶ月半前に来日したサントスFCのペレのプレーがイメージとして入っていたのではないかと思う。このときペレは、山口にマークされて後方からのボールを胸で止めるとき、胸で弾ませる、あるいは下へ落として弾ませる、胸で横へ落として逃げる、等、様々な芸を見せた(オーバーヘッド・シュートはしなかったが)。胸でボールを止めることについて、釜本は元々、上背があってまずい高い球にも自信があり、胸でのトラッピングも上手になっていた。
 それがペレのプレーによって啓発されたのではないか? 彼はいつでも、いいものを見た後、刺激を受けた後に、必ずと言っていいほど、新しい自分の技術を付けていった。この相手を背にしての胸で止めてのオーバーヘッド・シュートは、メキシコ五輪ですでに完成の域に達していた胸のトラッピングからのシュートの一つのバリエーションとも考えることが出来る。一つの型が出来上がれば、それだけに留まらず、そこから、たえず新しいものを生み出したのが釜本選手の、長いストライカーのキャリアを支えた原因だと思う。

 それにしても、ボールを蹴る動作、ボールを止める動作、サッカーのプレーの一つひとつに、これほど“法”に適った選手も珍しい。グラウンドで彼のプレーを見るとき、多くの日本のファンは、まず彼の“ド迫力”に驚かされたものだが、その力強さや鋭さとともに、彼のプレーの美しさを忘れることは出来ない。彼がプレーヤーとして公式試合の場から姿を消した今、改めて、この選手の良さを思うのだ。読者の皆さんも彼のビデオを見る機会があれば、あるいは40代の彼がヤンマーの現役とともにボールを蹴るところ、あるいは少年を教えるところを見る機会があれば、しっかりと目に焼き付けておいていただきたいと思う。


≪釜本の証言≫
 ムルデカ大会でのオーバーヘッドのシュートは、僕にも、そんなにない経験だから良く覚えている。高田君の右からのクロスが僕の後方へ来た。ボールは僕の頭の高さくらいだったが。位置はゴール正面、ペナルティエリアの外だった。シザースで、右足で踏み切り右足で蹴った。69年の肝炎から3年、体も回復して、調子が良かったから、ああいう思い切りの良いプレーが出来たと思う。
 72年ムルデカ大会では、このカンボジア戦の他にマレーシアAとの試合でも、オーバーヘッドキックのシュートを決めた。これは山口からのクロスを、ゴールを背にして胸で止めて蹴った。
 ロングシュートの所で説明したように、やはり、こういうシュートをするというのは、乗っているときで、シュートをどんどんしてやろうという気持ちになっているときだ。そういえば、カンボジア戦でも40メートルくらいのシュートを決めている。もちろん、ボールをしっかりインステップでとらえるという基礎があってのことだが……。


(サッカーマガジン 1984年8月1日号)

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