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釜本邦茂(24)ペレとオベラートの友情参加。満員の国立競技場、引退試合でも先制ゴール

 1984年元日、国立競技場での天皇杯決勝、日産対ヤンマーは2−0で日産が勝ち、39歳、釜本邦茂の最終戦は天皇杯準優勝で終わった。この年2月13日、ヤンマーディーゼルは釜本の引退を発表した。
 そのニュースを聞きながら、私は「引退試合」を考えていた。
「天皇杯決勝での日産とヤンマーではチームの勢いが違っていた。釜本邦茂の選手生活のラストシーンにふさわしいとはいえなかった。彼のために特別の引退試合を行ないたい」――そんな思いの私のもとに、電通の西郷隆美さん(故人、当時スポーツ文化局次長)から引退試合を計画したいと連絡があった。担当の宇佐美雄大さん(元・電通サッカー局長)と話を進めていった。

「アマチュア選手に引退はない」という声もあった。「一人のプレーヤーのために特別の引退試合をした例はない」という意見も少なくなかった。「メキシコ以来16年、停滞のサッカー界でのこの催しが成功するだろうか」と心配する向きもあった。
 ポジティブ思考の長沼健JFA専務理事が、「ヤンマーディーゼルの主催、日本サッカー協会(JFA)と日本サッカーリーグ(JSL)後援」という形を示してくれた。主催の責任を負うヤンマー側の部長・総監督、山岡浩二郎さん(故人)のOKが出た。8月25日、国立競技場のナイトゲーム。ヤンマー対日本リーグ選抜と決まった。

 この年5月に私はスポーツ誌の編集局長を退き、系列の企画会社にいた。編集畑にいた頃から、大阪女子マラソンをはじめ、さまざまな事業を手掛けていた。紙の媒体や電波によるイベント宣伝の効果もある程度理解していたから、この催しをにぎやかにする仕掛けには自信はあった。ただし、大切なのは釜本の最後の試合に集まってくれるファンに満足してもらえる試合を提供できるかどうか――だった。
 高橋英辰JSL専務理事(当時、故人)は立派なリーグ選抜を編成してくれるだろう。ラモス瑠偉(27)ジョージ与那城(33)木村和司(26)水沼貴史(24)金田喜稔(26)たちの選抜チームは個人レベルも高く、ヤンマーとは力の開きが大きいのではないか――となればヤンマーのメンバーに海外の有名スター、それも実際の試合でしっかりプレーできる選手に加わってもらうことにしよう――。
 まず、なんといってもペレ。カマモトのことをよく知っている彼は出場をOKしてくれた。ただし、7年前に引退した43歳の“神様”ペレがどこまでプレーできるか? もう一人、カマモトをよく知る“皇帝”ベッケンバウアーは、この日は予定が入っていてダメだったが、ボルフガング・オベラートはOKだった。
 オベラートは釜本より1歳上だが、この年6月に西ドイツで開催された「ワールドカップ開催10周年記念」74年決勝再現試合で、彼とヨハン・クライフ(オランダ)がまるで現役さながらのプレーを見せたという情報があった。

 この年夏にロサンゼルス・オリンピックが開催されたが、日本選手の成績は上がらず、期待されたマラソンも不振に終わった。そうした中で晩夏の活字メディアは「引退試合」を記事にしてくれた。放映にあたるテレビ東京の宣伝も熱を帯びた。たまたま、Y紙のスポーツ面に入場券の告知広告を出したら、記事の影響もあって、切符取扱店に電話が殺到したという話もあった。
 試合前日24日(金)、友情参加のペレとオベラートと釜本の3人の記者会見には、停滞期サッカーには考えられない数のメディアが集まった。

 25日、午後7時、ぎっしり詰まった国立競技場でヤンマー対JSL選抜が始まった。
 久しぶりの大観衆に、集まった観客自身も興奮し、選手たちは異常な雰囲気の中で、硬くなっていた。そんな中で、前半15分に釜本が先制ゴールを奪った。左サイドの楚輪博からのグラウンダーのパスを、彼は右へ開いた位置から走り込んで決めた。リーグ200ゴールと同形だが、今度は右足のアウトサイドだった。楚輪へのパスはハーフウェーライン近くの中央にいたオベラートが左足で送ったもの。場内の空気は最高潮に盛り上がった。
 後半にはペレも加わった。さすがにかつてのスピードはなかったが、やはりペレはペレ。合わせて120歳を超える3人の交換するパスの美しさは格別だった。
 オベラートという中盤の中心を得たヤンマーが3−2で勝った。リーグ選抜側に、あるいは3人の先輩への“敬意”が強かったのかもしれないが、満員のファンは酔い、改めて釜本の偉大さと、サッカーの楽しさを満喫。電光掲示板の「さようなら、そして有難う」を実感した。


(週刊サッカーマガジン 2009年5月5日号)

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