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プラハの2つの名門クラブ

 サッカーがこの国に入ったのは1880年代。当時、オーストリア・ハンガリー帝国の中でウィーン(オーストリア)、ブダペスト(ハンガリー)と並ぶプラハ(ボヘミア)にも、FAルールのフットボールが伝わってきた。もちろん、オーストリアの首都ウィーンは、ビクトリア朝の英国文化を取り入れることに熱心だったが、どうやらプラハでのサッカーの流行は、ウィーンより一足早かったらしい。

 そんなプラハの1882年に創立された有名なスラビア・スポーツ・クラブに、1893年になって、それまでの自転車や体操といったセクションにサッカー(フットボール)も加わった。その1年後にクラル・アスレチック・クラブが誕生。これがのちにACスパルタ・プラハとなるが、こうして今日まで続く2つのプラハの名門クラブ、「スラビア・プラハ」と「スパルタ・プラハ」が19世紀に生まれ、チェコサッカーをリードすることになる。

 2つのクラブに刺激されて、その後もプラハに「ボヘミアンズ・プラハ」(1903年)、南部の「ドナイスカ・ストレーダ」に同名のクラブ(1905年)、そのすぐ北のニトラの町に「プラスティカ・ニトラ」(1909年)、プラハの東クラローベに「スパルタク・クラディク・クライオーバ」(1905年)、中部のポーランド国境に近いツリナには「ZVL・ツリナ」(1909年)、西部のプルゼニに「TJ・スコダ・プルゼニ」(1911年)などが続々と設立される。これらは、いずれもオーストリア・ハンガリー帝国に属していたころから、第1次大戦と、その後の独立、そして、ナチによる占領と独立、社会主義国への移行から、さらに社会主義を国名からはずした現在に至るまで、国の名や政府は変わっても、サッカーを楽しむクラブとして生き続けている。

 もちろん、政治が変わることによって、新しく生まれたクラブもあった。48年に生まれた「デュクラ・プラハ」は、ソ連はじめ、社会主義国によくある陸軍のクラブ。政府や軍のバックアップで資金を豊富に持ち、ある時期には優秀なプレーヤーを集めてリーグのタイトルを独占し、欧州のクラブ・カップでも活躍してチェコスロバキアのサッカーの代表格にもなっている。これはまた、社会主義国のスポーツ奨励策の1つのあらわれだったといえる。


(サッカーダイジェスト 1991年4月号「蹴球その国・人・歩」)

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