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釜本邦茂(25)ガンバ初代監督、国会議員、JFA副会長。夢はストライカー育成に

 BS朝日でACLを見られるのは、とてもありがたく楽しいこと。その中の鹿島対アームド・フォーシズFCの試合で新井場徹が良い働きをした。彼は稲本潤一とガンバの育成チームからの同期で、鹿島に移ってから試合には出ていたが、どういうわけか攻撃力発揮とはいかず、私には不思議な5シーズンだった。ことしの誕生日で30歳だが、素材からみてもっと上のクラスになれるプレーヤーだと思う。
 大迫勇也という若いプレーヤーを預かり、その成長を助けるオズワルド・オリヴェイラ監督のもとで新井場が伸びれば日本サッカーの貯えがまた一つ増えることになると思う。

 さて、連載の釜本邦茂は、今回が最終回――。
 84年8月25日、夜の国立競技場での引退試合は、ペレとボルフガング・オベラートの二人がカマモトを抱き上げるという予想外のラストシーンで終わった。
 翌日の朝早く、一夜明けた釜本の表情を撮ろうとテレビカメラがホテルへやってきた。
 そのときのアナウンサーの質問に彼は「すべてやった。思い残すことはない」と答え、それがまた評判になった。
 しばらく彼はメディアの注目の的だった。冗談めかして、「選手を引退して有名になりました」と挨拶していた。
 代表は不振、JSLも盛り上がりの材料に欠けていたサッカー界には、この宴(うたげ)は一つの刺激ではあった。
 ただし、長沼健さんも賛同してくれたもう一つの目論見は果たされたかどうか――。

 当日のプログラムに私は「今なぜ釜本なのか」を書いた。その一部にはこうある。
「世界のトップの試合を見ても彼ほどのストライカーはそうたくさんはいない。この逸材を、もう一度、その筋力、ボールテクニック、フォーム、ゴールへの意欲、彼の外面から内面まで、具象から抽象まで、あらゆる面で解剖し検討することは、第2、第3の釜本を生み、日本サッカーが世界の一流に伍してゆく素地づくりの重要な仕事でしょう」と――。

 宴は成功した。しかし、地味だが私たちの本当の狙いは浸透せず、そのまま今に至っている。
 翌年、彼はヤンマーの監督を辞任した。
 ヤンマーディーゼルを辞めた後も、彼の人生は表舞台に立って、華やかだった。
 1993年にJリーグが開幕したとき、関西で唯一のチーム、ガンバ大阪の監督となっていた。成績の上がらないチームの責任をとり、自ら監督を辞任したのが95年1月。釜本邦茂の名に憧れて、多くの優秀な素材がガンバの下部組織に入って、強いガンバをつくる力となるのは少し後の話だが……。

 監督を辞めた彼のところへ、今度は参議院議員へ――との誘いがきた。
 藤田静夫さん(故人、第6代JFA会長)から、この件を相談されたときに、彼にはストライカーを生む仕事を優先してほしいと言ったが、JFAにはそういう空気はないとのことだった。すでに2002年のFIFAワールドカップ開催の意思表示をしながら、開催地争いは韓国の追い上げにあって、苦境にあるとの情勢でもあった。
 そういう時期に彼のような著名なサッカー人が国会議員になることは、プラス面が大きいだろうということで賛同した。
 2002年大会は、結局、共同開催ということで、96年5月31日に決まったのだが、その何日か前に、私は釜本議員がJFAの2002年大会招致委員として欧州を回ったとき、「共同開催案が出たら、それで決まりだな」と言われたと聞いた。やはり選手時代の名声は、こういうところでも生きるものと知った。
 その国会議員は2001年まで務めた。98年にJFA副会長となり、2008年まで協会の幹部として働いた。それぞれ、日本サッカーにとって大切な役柄で、彼自身もしっかり仕事をした。

 その間、日本サッカーはワールドカップに出場し、ワールドカップを開催し、サッカー環境は大きく向上した。
 プロのJリーグの組織も、選手の層も厚くなった。ただし、その中で釜本をしのぐストライカーは現れず、日本代表は得点力不足という課題を抱えたままでもある。
 ゴールを守るスペシャリスト(11人の中ただ一人手を使える)の体格が良くなり、その特別練習の成果でゴールキーパーの能力がますます高くなる傾向にあるのだから、ストライカーのレベルアップは急務のハズ。
 デットマール・クラマーは、私に「第2の釜本を育てることだ」と言う。釜本邦茂の偉大な経験が日本サッカーに役立つことを願うのは私だけではあるまい。


(週刊サッカーマガジン 2009年5月12、19日号)

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