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世界のサッカー国を相手に銅メダル獲得。メキシコ五輪の地味なヒーロー 鎌田光夫(上)

日本サッカーのHALL OF FAME

 東京都文京区本郷3丁目10−15、「サッカー通り」に面した日本サッカーミュージアムは、2002年のFIFAワールドカップ開催を記念して創設され、日本サッカーの歴史を彩る品々や貴重な資料が展示されている。大型映像装置、メガビジョンを備えた「ヴァーチャルスタジアム」、特殊な映像装置を使って一流選手のテクニックを解説する「トレーニングサイト」、日本代表ロッカールームの再現、さらには日本代表やJリーグ関連グッズ、オリジナル・グッズを販売するショップ「FLAGS TOWN」など……。それぞれのスペースでの多彩な趣向が人気を呼んで、開館以来、入場者は27万人を超えている。

 そのミュージアムの地下1階にあるのが「日本サッカー殿堂」。アメリカ大リーグの「HALL OF FAME」やイングランドの「THE FOOTBALL HALL OF FAME」と同様に、日本サッカーの発展に大きく貢献した人たちを永久にたたえるために設けられた。両側の壁面に銅製の彫像を掲げた「ロゥア―スタンド」と呼ぶ空間は、静けさの中で功労者それぞれの時代を思い、歴史を振り返る場でもある。

 今年9月10日、日本サッカー協会(JFA)は創立記念日に、第6回殿堂掲額式典を行なう予定で、高橋英辰(たかはし・ひでとき=故人)大谷四郎(故人)松本育夫(メキシコ・オリンピック代表選手、現・サガン鳥栖GM)丸山義行(日本人初のワールドカップ審判員)の4人が新たに掲額される。
 代表の監督、コーチであり、日立で走るサッカーを打ち出した高橋英辰、通称・ロクさんについてはこの連載『このくに と サッカー』で2004年7、8月号で、また朝日新聞の記者であり、優れた指導者でもあった大谷四郎さんは03年5〜7月号で紹介している。松本さんは1941年生まれ、日本代表でメキシコ・オリンピックの銅メダリストであるとともにJSL(日本サッカーリーグ)という企業リーグで、60年代後半にトップであった東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)のスター選手でもあった。選手引退後もサッカーの現場でコーチ、監督を続け、現在はJ2サガン鳥栖のGMを務めている。


1年前から準備した“掃除人”

 さて、今回の連載は鎌田光夫――。
 松本育夫と同じメキシコ銅メダル組。JFA発行の『日本代表公式記録集』を見ると、代表のデビューは1958年12月25日、香港での対香港戦で、以来、70年6月7日、福岡でのサウサンプトン戦(イングランド)までの12年間に147試合(うちAマッチ44試合)出場。Aマッチの中に東京オリンピック4試合(大阪での5、6位トーナメントを含む)、メキシコ・オリンピック6試合、合計10試合のフル出場も含まれている。
 代表での初めてのポジションは当時、サイドハーフと呼ばれた、今でいう守備的MF。そして、代表チームの変化とともにCDF、さらにはスイーパーと守備的役割を強めていった。

 メキシコ・オリンピックの成功の理由の一つに、“戦術”の成功がある。戦った相手はナイジェリア、ブラジル、スペイン、フランス、ハンガリー、メキシコで、この6ヶ国はハンガリーにかつての勢いを欠くほかは、今でもサッカー強国、あるいは大国であり、アマチュアであっても個人力のレベルは高い。そうした国々の代表を相手にしたとき、まず守りを固めて失点を少なくし、日本の武器である杉山隆一、釜本邦茂の攻撃を生かすことを考えたのは当然。その守りには、堅いマンマークとDF網の破れに対応するスイーパーを置くことにし、鎌田が選ばれたのだった。
 60年代にヨーロッパで多くのチームがスイーパーを取り入れたが、日本代表チームの長沼健監督が採用したのが、67年6月にブラジルのパルメイラス来日の3試合のとき。個人技術に大きな差のある相手の攻めに対応するためだった。
 第1戦は0−2、第2戦は2−1、第3戦は0−2.守りが強くなり、2試合目は釜本の強シュートがオウンゴールになるなど幸運もあったが、まずは成功――。力に開きはあっても、このやり方なら勝ち得ることを知った。スイーパー・鎌田の始まりだった。


(月刊グラン2009年10月号 No.187)

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