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本番の1年前、ブラジルのパルメイラスを相手の守備戦術のシミュレーション。メキシコ銅メダルのヒーロー 鎌田光夫(中)

日立一高。中央大で実績

 1968年(昭和43年)、メキシコ・オリンピックで3位となり、アジアのチームとして初めてオリンピック・サッカーのメダリスト(銅)となった日本代表。その守りの要、スイーパーとして活躍した鎌田光夫は、37年12月16日生まれ。当時の代表チームではキャプテン・八重樫茂生(35)渡辺正(32)らと同じオーバー30。チームの中での年長組だった。

 茨城県立日立一高に入ってから本格的にサッカーを始め、3年のときにはレギュラーとなり、国民体育大会・神奈川大会の高校の部で3位となる。
 ポジションはサイドハーフ(SH)。今でいえば、守備的ミッドフィルダー(MF)になるだろうが、鎌田は守りだけでなくいいパスも出し、攻撃面でも力を発揮していたようだ。  卒業すると同時に中央大に進み、2年生からレギュラー。57年5月の第37回天皇杯で中央大クラブ(OBと学生の混成チーム)のMFで出場し、決勝で実業団の強チーム、東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)を2−1で破って初優勝した。

 58年5月、東京での第3回アジア大会で日本代表が不振に終わった後、日本サッカー協会(JFA)は、代表チームの立て直しを図り、12月の東南アジア遠征に若い選手たちを送った。
 その第1戦、12月25日の香港での試合は2−5で敗れたが、11人のうち、なんと7人が代表Aマッチデビュー戦だった。その中には21歳になったばかりの鎌田をはじめ、宮本征勝(故人、鹿島アントラーズ初代監督)川淵三郎(現・日本サッカーミュージアム館長)などの名もあった。
 60年に中央大を卒業すると、古河電工に入る。長沼健(故人、第8代JFA会長)の下で強化を図っていたこのクラブが、実業団チームとして初の天皇杯優勝を遂げたのはその年の5月。決勝の対慶応BRB(慶応大OBと学生の混成チーム)は4−0の完勝だった。

 日本代表はローマ・オリンピック予選対韓国2試合に始まり、62年の第4回アジア大会(ジャカルタ)など成績の挙がらない苦しい戦いの後、63年にやや光が見え始め、64年の東京オリンピックを迎えた。鎌田は対アルゼンチン戦の逆転劇、対ガーナ戦の惜敗、そして準々決勝の対チェコ戦での完敗、さらに大阪トーナメントの対ユーゴスラビア戦の4試合をフル出場した。
 物静かで優しげな顔つきで闘志が表に出るタイプではなく、当時としては背が高いほうの177cmのスラリとした体つき(GK横山謙三が175cmだった)の鎌田は、労をいとわぬ動き、冷静な読み、的確な判断で長沼監督から信頼を得ていた。


メキシコ目指しアジア・ナンバー1へ

 東京オリンピックでの成果、対アルゼンチン戦逆転劇を日本サッカーの発展につなげるためにも、デットマール・クラマーとその直弟子、長沼健、岡野俊一郎(現・国際オリンピック委員会委員)たちは初の全国リーグ、日本サッカーリーグの開催をはじめとするいくつかの施策に取り組んだ。その最も重要な一つが、アジア予選に勝って、1968年(昭和43年)のメキシコ・オリンピックに出場することだった。そして、そのためには代表がアジアでトップの力を持たなければいけなかった。
 日本サッカーはクラマーの指導で大きく伸びた。代表チームは、ヨーロッパスタイルのアジアでは最も組織的なプレーをするようになっていた。動きの量も質も他の国より上だった。しかし、運動量が落ちるとアジア各国の相手にも、その個人力に対応するのが難しくなっていた。そうした相手を防ぐために、守りでの数的優位は欠かせぬことになっていた。

 67年6月にブラジルからパルメイラスという名門クラブがやってきた。ブラジル代表のベテランFB、ジャウマ・サントスをはじめとする“王国”のトッププロは、動きの速さ、ボールテクニックの確かさで世界中に知られている。そのチームとの3連戦で、「日本代表は相手の4人FWに対して5人のDFを置こう。マンマークの選手とは別に、危険地帯をカバーするスイーパーあるいはリベロと呼ぶポジションの選手を置くことにしよう」と日本側の監督、コーチは来日したクラマーとも相談し、そのスイーパーに鎌田光夫を配したのだった。


(月刊グラン2009年11月号 No.188)

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