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片山、山口、小城たちとともに粘り強い守りで銅メダルの栄光をつかんだ冷静なスイーパー 鎌田光夫(下)


 鎌田光夫の代表チームでのスイーパーのスタートは、1967年の対パルメイラス(ブラジル)との試合であったことは前号で述べた。ただし彼は、その前年の66年11月6日の古河電工(現・ジェフ千葉)での試合ですでに実証済みだった。


66年のJSLで新守備で王者を困惑

 1964年の東京オリンピックの翌年からスタートしたJSL(日本サッカーリーグ)は、プロ野球以外の初の全国リーグとして評判となった。その初期のJSLで勝ち続けたのが広島の東洋工業(現・サンフレッチェ広島)。鎌田の古河電工は強化が遅れて選手の年齢が高くなり、かつての力が薄れていた。
 66年、2連覇を目指す東洋工業は第12節までで11勝1敗。第13節の対古河電工に勝てば優勝というところだった。古河はホームの東京・駒澤競技場で東洋の胴上げを見たくないと、35歳の大ベテランの長沼健も出場し、鎌田をスイーパーとする守備重視に出た。宮本征勝(故人、メキシコ・オリンピック代表、鹿島アントラーズ初代監督)が東洋のキープレーヤー、小城得達(ありたつ)をマークしてその威力をそぎ、東洋のスピード攻撃を防いで0−0で終わった。
 60年代にイタリアのチームが採用したカテナチオ(かんぬき)と称する守りで、DFラインにスイーパーを置くようになったのがこのころのヨーロッパの傾向になっていた。東洋の圧倒的な攻撃力を封じるために、古河はこの策を取り入れたのだった。


粘り強い不動のディフェンス

 冷静さを保ち、相手の仕掛けを読む能力のある鎌田は、177cmと当時での長身ははまり役に見えた。1967年のパルメイラス戦は高い技術を持つブラジルのプロフェッショナル相手に、日本での3試合を0−2、2−1、0−2と1勝2敗の成績だった。技術の差は大きかったが、スイーパーを置くことで、DFの一人ひとりが果敢に密着マークに挑み、相当の効果を上げた。第2戦では“史上初”の対一流プロ勝利も記録した。
 以後しばらく、日本代表はこの形をとる。スイーパーの控えの育成も図ったが、68年のメキシコ・オリンピックの本番では、初戦の対ナイジェリア(3−1)から対ブラジル(1−1)対スペイン(0−0)のグループリーグと準々決勝対フランス(3−1)準決勝対ハンガリー(0−5)3位決定戦対メキシコ(2−0)の6試合すべてでこの役を演じた。右DFは片山洋、左は山口芳忠、CDFは長身、頑健の小城だった。重厚、安定の小城、タフな片山と山口の両サイドDFは粘り強く、相手の一人ひとりに対抗し、その綻びを鎌田がカバーした。
 そう書いてしまえば簡単だが、一つひとつの試合はやはり、今の日本代表が戦うのと同じで激しく、厳しいものだった。第1戦で鎌田が前半15分ごろにヘディングの競り合いで倒れ、右ひじ関節を脱臼したのを自分で入れてプレーを続け、ハーフタイムにドクターに痛み止めの注射を打ってもらい、最後までプレーしたという壮絶な話も残っている。

 30歳で銅メダル選手となった鎌田は70年6月で日本代表を退き(147試合6得点、うちAマッチ44試合2得点)74年に古河電工でのプレーもやめた(JSL106試合6得点)。指導者となり、多くの業績を残し、2007年に日本サッカー協会の第4回日本サッカー殿堂の掲額者となる栄誉を得た。

 60年、デットマール・クラマーが初来日して、日本代表を基礎技術の第一歩から指導したとき、私は20m先の目標へボールを蹴り入れるという単純な練習に黙々と取り組んでいるスリムな学生選手を見た。それが8年後の銅メダリストだった。
 以来、半世紀がたち、プロとなり、日本代表は大幅にレベルアップした。FWの守備もDFの攻めも格段に上達した。その進化を眺めつつ、私は鎌田たちが取り組んだ粘り強い守りが、これに加われば――と思う。


(月刊グラン2009年12月号 No.189)

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