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日本のスポーツの特異性 その1

遊びがないスポーツ

 スポーツは元来、遊びとして生まれた。その後、競技会の発達でスポーツの様相は大いに変わりはしたが、本質が遊びであることに変わりはない。最近世界で文明国を中心にスポーツが新たに見直されているが、実はこの本質の遊びの精神が見直されているのである。ごころが、日本のスポーツにはその遊びがなかった。しかし、スポーツ競技は盛んだ。こんなスポーツ界は日本を除いてまったく珍しい。遊びのないスポーツ――これが我々のスポーツの最も特異な性格であろう。
 なぜこんなことになったかの理由は、ごくわずかな個人種目を除いては、全てのスポーツが学校だけで育ったことにある。戦争以前のスポーツは中学で始まり、高校あるいは大学予科を経て大学で終わった。戦争以後は兵役がなくなったのでスポーツ年齢が学校卒業後に延長され、そこに企業スポーツという新しい分野が生まれたが、学校も企業もいずれも遊ぶことのできないところだった。どちらもスポーツを目的としない管理社会であるからである。こうして日本のスポーツは遊べないところばかりで長い間行なわれてきた。

 遊びは遊び自体に必要な制約以外には制約のない、自由な状況のなかでないと成り立たない。だから楽しいのだ。したがって、学校という教育を目的とした管理会社、あるいは企業という営利を目的とした管理社会のなかで、教育とか営利のための管理の目で眺められながらスポーツをしても、遊びにならないから、スポーツではなくなる。そうした状況のなかでは、完全にスポーツ自体のために発想し行動できる自由が持てないから楽しくない。逆にそのような制約のないところでは、自由だから自主性が持てる。気づかいなく熱中できる。
 このような遊びの意味を理解しない人は「遊んで強くなれるはずがない」という。もちろん遊びの場合、やるも辞めるも自由だから、ほどほどに楽しんで満足する人もいるだろう。それも外から規制するわけにはゆかない。だがひとたびそのスポーツに魅力を覚えて、もっと楽しみたいと思ったら、自由のなかで自分で決めることだから、制約のなかでの場合よりももっと積極的に取り組む姿勢ができる。したがって上のレベルへ上がる苦労もかえって楽しくさえなるだろう。自主的な判断による行動だから苦労との戦いは自分との戦いであり、責任逃れをいえないだけにかえって本当の強さが出る。

 外国ではスポーツは、ほとんど会員制のいわゆるスポーツクラブで育った。そこは学校や企業のような管理社会ではなく、スポーツをすることが目的のところである。もちろん学校スポーツもある。だが教育の場でもスポーツは元来、遊びであることは理解されていたし、遊びもまた人間をつくるに必要だという考えもあった。だからスポーツを楽しむ場を学校にもつくれるわけで、事実そうして学校に持ち込んで教育に組み入れた国、また今もそうしている国はいくらもある。
 しかし日本の教育思想では、ことに戦争以前では“遊び”は勉学、勤勉に対立する概念で怠惰、不道徳に近いものと受け取られていたから、それを学校で許容するはずはなかった。体育としては良い方法と思われただろう。勝負を競うという形は武道に似て精神教育上にも有効と映っただろう。しかもスポーツがもともと遊びということも分かっていなかったとも想像される。そうして形だけのスポーツは受け入れられ、それに武道が精神面で大きな影響を与えた。つまりスポーツは遊びの精神が抜かれて武道の精神が代わりに注入された。
 おそらくそのためであろうが、勝負意識はつのり、「いくら良いプレーをしても勝たないと意味はない」「何が何でも勝て」といわれるように、まるで生か死の分かれ目に臨んだときのような激しい鍛錬主義で貫かれた。そのためにときには“しごき”も生んだ。肉体は極限にまで鍛えられ、同時に精神も厳しい修練を受けた。スポーツはまるで精神修養の場となり、楽しいスポーツは拒否され、苦しいスポーツが賛美された。こうした傾向は軍国主義が勢力を得るとともにいっそう強くなった。


2つのスポーツ

 日本のスポーツは学校スポーツで育ったためにこうして独特のスポーツになったが、戦前の昔といまとでは中身は少し変わった。
 昔は以上述べたようにスポーツ観は実に厳しく窮屈で、自由はなく、遊びの入り込むところはなかったのだが、反面学校側の管理力は、実際にはスポーツを行なうグラウンド上では弱かった。中学校でも先生が練習を指導することは少なく、試合場に必ず先生が同行するとは限らなかったので、グラウンド上は意外に自由で、プレーはほとんど選手の自主性に任せられた。高校以上になるとまったく管理は感じられなかった。

 いまは教育思想が変わり、武道が影響力を失い、軍国主義的考えもなくなって、保守的なスポーツ界でもスポーツ観は昔ほど偏狭でなくなり、精神主義も鍛錬主義も少しは和らぎ、一部には楽しいスポーツを求める機運も芽生えて、相当堅苦しさはほぐれたかに見受けられるのだが、反面、管理社会からの制約力は非常に強くなり、広い範囲に及ぶようになった。ことに中学、高校で顕著で、グラウンドで先生が練習を指導するところが多くなり、校外試合には必ず先生が同行するだけでなく、父兄まで姿を現す。そうしてグラウンド上の自由は大いに失われている。
 といった変化はあっても、公式には相変わらず遊びの許されないスポーツが主流を占めている状況には変わりなく、その結果、元来スポーツは一つであるはずなのに、日本ではいま2つのスポーツがあるという奇妙な事態を招いている。

 いま世界の文明国といわれる国々では、機械文明と管理社会化の中で、人々は体を動かすことが少なくなって体力が低下しているだけでなく、自分で行動を決める自由を失い、常に外部からの制約に縛られて精神的にはストレスに苦しめられ、ノイローゼに陥る状況が深刻になってきた。心身ともに人々は自分自身の存在を自覚できる余裕がなくなり、いわゆる人間性を失い、自らの破滅の道をたどっているともいえるこの状況を心配して、諸外国ではそこから人間を救い、人間性を回復する手段としてスポーツを再認識し、政府が先に立ってスポーツの普及、施設の充実のために多額の予算を組んでいる。
 遊びが人間の精神をストレスから開放して自由にすることを理解しているからで、スポーツはその遊びで同時に健康に良く、体力づくりにもなるので買われたのである。いま日本でも次第にスポーツがこうした面からも認められ始めた。市民スポーツ、社会体育(体育という言葉はふさわしくないが)あるいはレクリエーション・スポーツ、レジャー・スポーツとも呼ばれるもので、その日本版といってよかろう。しかし、国や地方行政当局が外国の例のように、この問題を先取りして積極的に取り組むほどではない。むしろ一般市民の間に自然に現れた盛り上がりに任せられた形で、世界の動きには相当な遅れがあるが、遊びなしの日本のスポーツには大切にしなければならない貴重な動きだと思う。

 ところが、我が国の既成スポーツ側はこの新しいスポーツを同じスポーツとして仲間に入れようとしない。いま述べてきたように、学校スポーツを主流として育った既成スポーツ側は、競技会に勝つことを一途に目指して自らチャンピオン・スポーツないしは競技スポーツと称し、いま広まろうとしている新しい市民スポーツ側をレクリエーションないしはレジャーと軽視して別種のスポーツとみなし、自分たちには縁のない存在だという態度を取っている。この考えは企業スポーツよりも学校スポーツにこと強く、その学校スポーツが組織の大半を占めている各種競技の協会もまた2つのスポーツを一つのスポーツとしてまとめきれないので、いま日本では競技スポーツと市民スポーツの2つのスポーツが並んで存在するという奇妙な現象を起こしている。行政機関のなかでも教育スポーツと市民スポーツは別扱いにされている。


市民スポーツを仲間に

 これもまた日本のスポーツの特異性を示すものだが、ただそれだけでなく、お互いのスポーツに大きなマイナスの不幸な事態だと思う。市民スポーツといえども、その遊び精神には強い競技力へつながる要素が、学校スポーツ以上にかえってあるのだから、競技スポーツ側はこれを仲間に入れるのが得だし、また市民スポーツ側にもそうした可能性を生かせる道が開かれたら新たな楽しみも増すだろう。
 水泳や体操などの個人スポーツではすでにスポーツクラブ側から優秀な選手が出て競技会のトップを争っているのがよい例である。サッカーでもわずかなクラブのなかに、すでに優秀な選手が出ている。先般のワールドユースの日本代表を見ても、最終メンバーには残らなかったが、3、4人のクラブ選手がいた。いまユース年齢で高校チームは3,000を超すのにクラブチームはわずかに7つだ。高校チームに大学生も加わって候補に何人上がったかは確かでないが、クラブチームが競技力をつける点でも素晴らしく高い効率を示しているのは明らかだ。

 その効率の良さにはもちろん選手自身の素質の良さ、コーチ力の良さもあるだろうが、外からの規制のない自由の雰囲気が何よりの力となっている。クラブスポーツにはスポーツ自体に必要なルールや規律以外には制約がないために、遊ぶスポーツを楽しめるということ、つまりここでは本当のスポーツができるということが、競技力を上げる面からも非常に役立っているのを示している。
 それを考えると、世界選手権やオリンピックを目指して強化を叫ぶ各種競技協会やその集合体の日本体協は、積極的にこの市民スポーツを自分の組織のなかに受け入れて一つのスポーツ組織としない手はなかろう。市民スポーツが増えるのはいわばスポーツが普及していることであり、普及と強化の相関関係からいっても、両者を縦につないで市民スポーツを基盤として強化を図るのが賢明だ。
 だがいま生徒に対する管理力を懸命に拡大しようとしている学校側は、管理力の及ばないクラブスポーツを容易に容認しようとしない。そうして生徒を極力、学校の管理のなかに閉じ込めようとしている。父兄側にもそれを願う傾向が強い。そしてその結果、被害を受けているのは常に管理される生徒であり、自閉症的な現象の多いのもそれである。自主性も失われる。ともあれ、スポーツ界にとって学校スポーツが市民スポーツに対して閉鎖的なのはマイナス効果しかない。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1980年1月10日号)

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