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ダニュービアン・スタイル
さて、19世紀にボヘミアのプラハへ伝わったサッカーは急速に広まり、1908年のロンドン・オリンピックにボヘミア代表のチームが参加を申し込む。同じようにハンガリーも代表チームを送り込んだが、オーストリア・ハンガリー帝国を統轄するオーストリア政府の抗議で、この2つの“地域代表”は参加できなくなってしまった。
それでも、その4年後にはボヘミアにリーグが発足、だが、すぐ1914年からの世界大戦で中断するものの、5年後に平和が回復し、今度はボヘミアだけでなく、チェコスロバキア共和国としてのリーグがスタートする。
念願のオリンピックへの初参加は20年のアントワープ大会。この大会では1回戦から準決勝まで圧倒的なスコアで勝ち進みながら、決勝の対ベルギー戦で英国人レフェリーの判定に不服を唱え、更衣室に引きあげてしまったため棄権となった。
大会本部では2位を決定するために居残っているチームに試合をしてもらい、スペインを銀メダルにしたのだが、試合さえ続けていれば、文句のない(負けても)銀メダルだったのに―――チェコスロバキアがオリンピックでメダルを取るのは、東京オリンピックまで44年を待たなければならない。
次のパリ・オリンピックは、1回戦でスイスに敗れるという不本意な成績だったが、20年代から30年代にかけて、チェコは中部ヨーロッパ各国との対戦で好成績をあげ、スコットランド人コーチ、J・ディックの指導によるシュート・パス戦法は、流れるように美しく「ダニューブ(ドナウ河)スタイル」として高く評価された。
英国の記者たちは、ドナウ河のワルツのようなサッカースタイルをダニュービアンというが、その中で、私は、ある時期のチェコのスタイルが、もっとも「ダニューブ」と呼ぶにふさわしいと思ったことがある。
(サッカーダイジェスト 1991年4月号「蹴球その国・人・歩」)