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コーチへの助言 その2

将来性を何で見分けるか

 若い頃には将来有望だといわれたのに意外に伸びなかったプレーヤーの例は決して少なくない。どこかで将来性の見込み違いがあったのだろうが、コーチは若いプレーヤーの将来性を何で見分ければよいのだろうか。

ボール技術……目で見える第一の判定材料はもちろんボール技術である。中学生年齢の終わりから高校生年齢の初めぐらいまでに、ボールにほぼ慣れたというか、ボールの扱いにほとんど抵抗を感じない程度にきていればまず将来性への第一の扉は開かれたとみてよかろう。遅くとも高校生年齢中だ。大人になってまだ基礎技術がどうのこうのといわれるようでは今のレベルを出ないだろう。将来性といっても目標をどのレベルに置くかだが、世界のトップレベルとまでは望まなくても、これからの国際的一般レベルに追随しようと考えての話である。

機敏性とバランス……ボール技術に対比される体力の面からいえば、機敏性と体のバランスに注目したい。いわゆるパワーに関する面は年少時にはあまり関係はない。これは年齢とともに次第に発達させればよいもので、早くから要求し過ぎると技術の進歩を阻害するマイナス作用が出てくる。それに引き換え機敏性は若いうちにこそ発達させやすいものであり、バランス感もまた同様だと思う。そうして外国勢との一般的対格差を考えるとき、日本としては、肉体的な対策に利用できるのはこの2つだと思う。

姿勢……身体面でもう一つ大切なのは走る姿勢である。走力もあるにこしたことはないが、たとえ年少時に特に秀でていなくても姿勢がよければ体力がつくとともに伸ばせるものだから、走力に関しての姿勢よりも、ここで私が姿勢を重視する理由は、むしろ次の点にある。姿勢はボール技術が戦術的プレー(対敵判断を加えた実戦的プレー)へ進む道の入口のようなものだという点にある。よい姿勢だったらその入口の扉はほとんど開かれているとみてよかろう。それについて詳しくはボール以前の実戦的基礎条件として既に書いたから、ここでは将来性につながる大きなポイントだということだけを強調したい。少なくとも姿勢の悪い名選手はいなかったし、今もない。

緩急……走ること、ことに敵と競り合うドリブルでスピードの緩急を中学生年齢で既に使えるプレーヤーを大いに買いたい。単なるスピードの緩急だけれどもこの年齢でそれをフェイントに利用しようとする者は遠からず他のプレーでも動作の緩急でタイミングのズレを利用できるようになるだろうからである。意識的であろうと感覚的であろうと、この才能を持っているのは、サッカーでは絶対スピードの勝負が多いこと――一般的にいえば、サッカーは敵との相対的な位置と動きの関係で勝負されることを知っている証拠だといえよう。若いうちに早くもそんなセンスがあれば将来駆け引きに富んだ戦術プレーが楽しみとなる。

戦術眼……ボール技術だけで試合はできない。その他に戦術がいる。それにはまずその知識がいる。そうして敵情を観察し、得た具体的な状況とこの戦術知識から、時々刻々どんなプレーをしなければならないかと判断する。この判断力が戦術眼といわれるものだが、その判断が的確でないとボール技術は生きてこないし、その判断に素早く適応できるボール技術でないとまた意味はない。いくら技術はあっても、この戦術眼が貧弱だと役に立たないことになる。その戦術眼の開発が遅れがちなので、日本サッカーは対敵プレーが下手である。だから開発を早めねばならない。中学生年齢でどんどん進め、高校生年齢ではボール技術とほぼ対等のレベルで並行しているほどになっているのが望ましい。あとは技術も戦術も経験を積んでその広さと深さを加えてゆく。若い頃に感覚的なひらめきで対敵プレーのできるプレーヤーは大切に育てたい。

サッカーへの情熱……以上のような条件が一応そろっていても、それで将来性が決まるわけではない。そうした条件が将来に生きるかどうかの最後のカギは、サッカーへの情熱なのだ。サッカーが好きで好きでたまらないためのひたむきなサッカーへの打ち込みようである。試合でのファイティング・スピリットもその表れの一つだが、むしろ試合よりも練習での打ち込みように重点を置きたい。
 一つの技術ができれば次の技術に自分で取り組んでゆく。それが容易に習得できなくてもどこまで工夫し苦労を自ら買って出る根性。あらゆるプレーの練習過程でこのように課題に食い下がってゆくひたむきな根性こそが将来性を本物にする。それがなければいくら資質に恵まれても期待は実現しない。「好きこそ物の上手なれ」である。心の問題だから判定しにくいようだが、優れたコーチならば見分けられる。大事な自主性もこのような辛抱強い情熱のあるところに生まれる。試合よりも練習で苦労できるプレーヤーに目をつけよう。そんなプレーヤーは教えても手応えがあるはずだ。教えて手応えのないプレーヤーは諦めることだ。


選手は個性を生かし、チームは攻撃的に作ろう

「個性のある選手がほしい」と何年かいわれながらそんなプレーヤーが出てこないようだ。全くいないわけでもなさそうなのだが、個性的なプレーヤーがいても陽のあたる場所に登用されないという現象もある。そうして懸命に駆けずり回って「よくやった、よくやった」と褒められても勝てる見込みは立たないのが現在の国際試合での日本勢の戦いぶりである。
 こうした事態から早く脱出しなければならないのだが、それにはまずこうした事態を招いた原因を取り除かねばならない。日本がまだ大きく遅れていたのにかかわらず世界の第1級レベルのサッカーに飛びついて2つのはき違いをしたのがその原因である。その一つは全員攻撃全員守備であり、もう一つは守備優先である。

 第2次大戦後のヨーロッパなどではまだWMフォーメーションの頃に既に全員攻撃全員守備の様相を示し始めていた。しかしその頃はまだ海外情報も乏しくて無関心だったが、東京オリンピックの準備に入った頃から情報も増え、国際レベルへ追いつけと新知識を貪欲に吸収し始めた。その際に4フルバック制とともに近代サッカーの至上命令のように導入されたのが、この全員攻撃全員守備であった。
 このサッカーはもともと既に体力も技術も戦術も成熟したレベルで生まれたものである。ところがいずれもまだ相当の格差があった日本に、それもこともあろうにまだ一つのプレーも本当に自分のものになっていない少年層にまで持ち込んだ。そうして攻めもやれ守りもやれと言っている間に規格型といわれる、これといった特色のない中途半端なプレーヤーが生まれた。
 それに4フルバックを契機に数的優位の守備優先が拍車をかけて、ことに攻撃陣にこれぞというプレーヤーが現れなくなった。現在の攻撃力の停滞は大ざっぱにいえばこうした理由によると言ってよかろう。すでに一芸に達した者には多芸を望みえても、まだ一芸にも達していないものに多芸を求めて無芸になったということだ。
 一芸に達するとは、自分の素質を生かした得意技をつくることだ。これだけはどんなときでもやって見せるという自分ならではの独特のプレーを持つことだ。それが個性的プレーである。攻撃にはことにその個性的なプレーが欲しいのに、あまりに早くからの守備優先はその個性的プレーへの芽を摘み取ってしまう。チームも攻撃力を優先して攻撃的チームを心がけねばならない。

 発展途上の日本サッカーは特にそうしなければならない。現在の守備優先の考えはどこで生まれたかといえば、これも成熟したプロ段階で獲得した順位を守るために必要な手段として生まれた。負けてはいけないチーム、タイトルを失いたくないチームが考えたことで、まだタイトルを取ったことなく、これから勝つことを覚えねばならない日本サッカーが考えることではない。それよりも早く守備優先の雰囲気から抜け出て、逆に攻撃優先の雰囲気を広めないといけない。
 選手づくりには初めから一定の枠をはめないで、自由な雰囲気のなかでそれぞれの個性に従って独特のプレーを伸ばすことだ。そうして育った持ち味の違うプレーヤーで長所が互いに生きて短所を互いに補い合う配置を考える。もちろん理想的にはゆかないだろうが、同じ型にはめたプレーヤーを並べるよりははるかにイマジネーションに富んだサッカーができるだろう。
 確かに守備も必要だが、全員に同質同量の守備力を求めないで、攻撃的なプレーヤーを中心に守備的なプレーヤーをうまく配してチームとしては守備力もある程度保てるように工夫する。
 だが攻撃に独特の能力を持っている者がいたら、彼を周囲に強調させてその能力を少しでも殺すようなことをしないで、協調が必要なら周囲を彼に協調させるようにすることだ。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1979年12月10日号)

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