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貧乏旅行の苦労と楽しさ


パーティーがヨーロッパに化ける

 遠征費のうち選手を出した学校のサッカー部が集めた510万円はいわば個人負担一人当たり30万ということだ。
 ではそれに相当する役員の負担はどうだったかといえば、竹腰、松丸両先輩のことは知らないが、僕の場合は幸い朝日新聞が旅費分を含んだ58万円か60万円ほどを協会へ寄付の形で出してくれた。そのうえに、特派員でないから日当はくれなかったけれども、出勤扱いにしてくれたので、大いに助かった。

 そのときの話だが、いよいよ明日出発というので、編集局長の信夫韓一郎さんに挨拶に行ったら、局長がいうには、
「おい、君はうまいことをしたぞ」
「どうしてですか」
「先月だったかな、外国のチームが来ていただろう。あのときの美土路さんが来られて、大谷を出してくれんか、と言われたんだ。ちょうどあのチームの歓迎パーティーの日だったので俺はてっきりパーティーに君を出せばいいのだと思って、結構です、出しましょうと何の気なく請け合ったら、なんだ、美土路さんはヨーロッパ行のことを行っておられたんだ。パーティーがヨーロッパに化けたわけさ。ワッハッハッハッ」
「そうでしたか、ハッハッハ、危ないところだったですね」
といまさらどうのというわけでもないので、僕は一緒に笑っておいたが、こんな瓢箪からコマのような笑い話もあって僕は行くことになった。

 その外国チームというのは、西ドイツのオッフェンバッハ・キッカーズのことで、その6月の来日試合を朝日新聞が後援して、パーティーを開いたときのことである。美土路さんは当時全日空の社長で、朝日新聞の大先輩だっただけでなく、関東サッカー協会の会長でもあったので、協会は美土路さんを通じて僕の派遣を朝日に頼んだのだった。


ソフト帽も揃えて

 羽田空港は大混雑だった。空港ビルが現在よりもっと小さい頃だったにしても、待合室もロビーも見送りの人で動きがとれないほどだった。あとで欧州各地を回るうちに見た見送り風景は至極あっさりしていて、羽田ほどの大げさなのはついに見なかった。
 一行は、グレーのズボンに胸に日の丸のブルーのブレザー・コート、そのブルーがやや色あせたようにくすんでいたのが気になった。まだあの頃はいいものが手に入りにくかったのか、安価だったのか。それに、淡いグレーのソフト帽を慣れない頭に乗せたいでたちは、昔からなじみの遠征姿だ。
 スポーツマンらしいのと迷子にならないために揃いはいいが、帽子は余分だった。誰か、欧州では帽子をかぶっていないと紳士扱いされないなどと言う人がいて、急遽注文したのだが、行ってみればローマもパリもアメリカの観光客がどっと押し寄せており、見れば彼らはほとんど無帽だ。
 それに、戦後はアメリカ人がたくさんやってきて、その影響で帽子が少なくなったといっていた。さすがにロンドンでは帽子姿の頑固者が比較的多かったが。
 いずれにしても平素かぶりつけていないソフトを急に頭に乗せてもどうも窮屈で落ち着かない。だからまた似合わない。やっぱりそれらしく恰好をなしていたのは竹腰、松丸の両長老だけだった。いまではおそらくオリンピックやアジア大会以外で帽子まで揃えての遠征はないだろう。


出発

 昭和28年7月24日の夜10時15分、日本学生選抜サッカー・チームの乗ったフィリピン航空(PAL)機は羽田を飛び立った。4基のプロペラ・エンジンが渾身の力を振り絞って上昇を終わり水平飛行に移ったとき、みんなの顔は初めてほっと落ち着いた模様だった。
 前日までの冴えなかった空模様が、この日は朝からからりと晴れて厳しい暑さだった。朝のうちに合宿していた日本青年館を引き払い、お茶の水の岸記念体育館の協会事務所でチームの荷作りをして汗をかき、夕方6時にはバスに乗って羽田へ、そうした空港の雑踏の中を約3時間近くもウロチョロしてぐったりと疲れていた。
 なにせ、選手は大学生といっても、外国へ出るのは生まれて初めて、それも夢のようなヨーロッパというので、旺盛な好奇心と一抹の不安がミックスして、フワリフワリと浮かれ気味である。仕方がないといえばそれまでなのだけれど、それが役員には気苦労の種になるのだった。

 ことに、その気苦労を一身に背負いこんだ形だったのが、竹腰さんだった。それまでの海外旅行経験者は、竹腰団長ただ一人である。戦前にはベルリン・オリンピックの監督をしたし戦後はヘルシンキ・オリンピック視察員で、そのあと英国などを回っておられたはずである。
 松丸さんはおそらく、戦前のマニラ極東大会の選手だったのが唯一の経験ではなかったろうか。僕は戦争で南方のラバウルへ連れてゆかれただけで、松丸さんにしても僕にしても、今度のヨーロッパ旅行に役立つような経験は持ち合わせていなかった。
 だから、竹腰団長がいつの間にか自然に渉外役を兼ねることになったわけで、羽田では見送り人への挨拶や新聞とのインタビューなどの団長の仕事の他に、出国手続きなどをみんなに説明したりの雑用も少なくなかった。そこへ選手もまた家族や友人の間を動いて落ち着かないので、竹腰さんは相当イライラ気味だった。
 竹腰さんはサッカー人の間では「ノコさん」で通っている。その響きはのどかで呑気そうな感じを与えるが、几帳面で選手の行動態度などにもなかなか厳しい人なのである。そのノコさんもシートベルトをはずしてやっとくつろいだように見えた。


なぜPALに乗ったのか

 僕はしばらく窓に顔をすりよせて皎々と照っている丸い月の下の方でキラキラと細かく光っている太平洋を眺めていたが、間もなくみんな眠り始めた。そこへ夜食が出た。選手たちはすぐさま目を覚まし食べるとまた眠った。僕もうつらうつらしたら、沖縄の嘉手納米軍基地に着いた。真夜中だったが食堂でまた食った。翌朝6時半マニラに着陸した。  出発の10時半までの間にPALは、我々をマニラ湾に臨む立派なホテルに案内して、シャワーを浴びて朝食をしてくれという。
 そうしてマニラを離れたPAL機は、バンコク−カルカッタ−カラチ−テル・アビブ−ローマに着いたのが東京を発った翌々日、26日の午後3時頃だった。一行はこのローマで2泊して翌々日のスカンジナビア航空(SAS)機で西ドイツに入った。

 ところで、今ならこんなに手間をかけないで26日にもうドイツ入りしているだろう。いくら20年前でもローマで乗り換え便を2日も待つ必要はなかろうし、またマニラ回りのPAL機でなければもっと早いはずだといわれるかもしれない。
 確かにローマで2日も待たないで早くドイツ入りするのが当たり前だが、実は無理にこのような日程を組んでくれたPALを、遠征軍はあえて選んだのである。ご存知のように、我々は貧乏旅行ではじめから滞在費が足りない。しかし何でも見て参れというのが遠征の大きな趣旨である。その立場で考えると、ローマを素通りするわけにはゆかない。だが金はない。この矛盾をどう調整するか。竹腰団長らの苦心はまずここから始まって、考えついたのが航空会社のサービスだった。

 片や航空会社にしてみると、当時20人の欧州往復は大したお客で、何とか乗ってもらおうと各社が競争した。そこをうまく利用したわけだ。
 結局ローマでの乗り換え2日分を持つから我が社へどうぞ、ということになってPAL社が選ばれたのであるが、はじめのうちは復路は未定だった。すると一行がドイツの大会も済ませ、スウェーデン、パリを経てブリュッセルに到着した日、さっそく日本大使館へ挨拶に行ったらPALの支配人がちゃんと大使館へ先回りして待っていた。帰りもぜひという。竹腰さんは確かそこではまだ確約しなかったはずで、次のロンドンでようやくPALと決めた。
 あちらの熱心さに驚いたが、竹腰さんも、なかなか上手に話をつけた。そうして一行はベルグラードからローマに戻り日本へ向かうまでに再びPAL持ちで2、3日の“ローマの休日”を楽しめた。おかげで往きは、遺跡やサン・ピエトロ寺院やサンタンジェロの城など市内観光をし、帰りにはイタリア1部リーグの試合の合間に本場の歌劇「ラ・ボエーム」まで観ることができた。
 スポーツの遠征旅行で全員が歌劇を観賞したなどという優雅な話は珍しいに違いない。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年2月号)

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