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ハプニング


備えは怠りなかったが

 何度もいうようだけれども、この遠征はまさに画期的であったから、出発前の合宿中には、戦後のヨーロッパに特派員だった朝日新聞の島田巽論説委員を招いて各国の国情を講義してもらったり、また交通公社の人には、各地の見どころや旅行心得を話してもらうなど“大いに見聞を広めよ”に備えて、怠りなかったのである。
 しかし、何といっても、20年を越える以前のことだ。すでにサンフランシスコ講和条約のあとといっても、まだまだ洋行はめずらしかったし、外国の風習に関する知識も乏しい時代だった。そのとき、好奇心にあふれた若者を20人近く連れて行く竹腰団長、松丸副団長の気苦労は、想像に余る。幸い大騒動は起こらなかったが、こんな旅にいくつかのハプニングはやむを得ないだろう。それも今では、ほほえましい思い出である。


これは何だろう

 由来赤ゲットの笑い話はホテルに多いが、我々のハプニングもまずホテルに始まった。
 前にも書いたように、羽田を発った翌朝、一行はマニラのベイビュー・ホテルに休憩した。いく部屋かに分かれてシャワーを浴びたあと食堂に集まり、さて朝食にかかろうとしたが、I、M、N、Tの4君がいない。食事が半ば進んだが、まだ姿を現さない。どうも部屋で食っているらしいとなって、竹腰さんと松丸さんは苦い顔である。ついに食事も終わったころ、4人はようやくぞろぞろとやってきた。
 同室の彼らは、シャワーを交代で浴びている間に、手持無沙汰の奴が、これは何だろう、あれは何かと部屋のあちこちをいじくっているうちに、ルーム・ボーイを呼ぶベルをつい押してしまった。ボーイが現れる。何か注文しないと格好がつかなくなって、朝食を部屋へ運べと命じてしまったというわけだ。一同は松丸さんに叱られた。
 ここはPALのサービスでわずか2時間ばかりの休憩だから、ペソの用意をしていないし、また無駄金は使えない貧乏の旅である。それなのに、食事を部屋に運ばせると、ボーイのチップもやらなくてはならない、と松丸さんは会計役らしく心配したに違いない。

 出発前の準備教育にはもちろんホテル宿泊法を落としていなかったから、以後のホテルはほぼ無事平穏だった。ただ一度、ドイツに入って間もないころ、「おーい、ペラ」と平木君を呼ぶJ・I君の大声が響き渡って、僕をびっくりさせたことがあったぐらいだ。
 そのとき、僕はすぐさま廊下に飛び出したが、J・I君はいないので一つ下の階におりたら、彼が廊下の向こうの方で平木君を探していた。ホテルの廊下は日本旅館のように音の漏れるところがないので、つい日本式に平木君を呼んだ彼の大声は廊下を突っ走り階段を駆け上がって一階上の僕の部屋に飛び込んできたのだった。


英国の頑固ばあさん

 僕は雑用係だから、ホテルでの世話は僕の仕事だった。ハプニングの起こらないようにと気を配ったが、ことに部屋割はひと仕事だった。サッカーはチーム・ゲームだから、部屋割りもチーム・ワークの立場からポジションの隣同志を考えたり、選手の性格やそのときどきのコンディションから、ときおり組合せを変えたりしなければならない。
 それをフロントでキーをもらってから思案したのでは時間がかかるから、ホテルに着くまでのバスの中で一応部屋割りをしておくことにしたが、実際にはツイン部屋がいくつで、シングル部屋がいくつかはホテルに到着するまで分からない。そこで、大抵はバスが着くと荷物をおろしている間にまず僕がフロントへ飛んで行って、部屋の様子を確かめ、僕がまとめてキーを受取り僕の部屋割り表でキーを渡すことにした。そうしないで、あちらのフロントに任せると、誰がどの部屋に入ったのか分からなくて、始めは大弱りした。

 大方は僕の方法でうまくやっていた。ところが、ロンドンではフロントがこちらの頼みを聞いてくれないのである。ハイドパークからそう遠くないところにあったアスターというホテルだった。せいぜい3、4階の同じような家が並んでいる中で、一見ホテルとは思えない小ぢんまりとした普通の家に似た、やや旧式のホテルで、作業員もさして多くなく、フロントでは大柄ででっぷりと太ったばあさんが采配を振っていて、僕が部屋割りをするからキーをまとめて寄こせといっても聞かない。あくまでも自分がすると主張して譲らないのである。
 とうとう根負けして彼女に任せたが、やはり部屋割は知っておかねばならないので選手をそこに足止めしてメモに取るやらで、かえって時間がかかった。
 英国人は誇り高いというか、試合をしたときにもボールがやたらと硬いので、少し軟らかくしてくれといっても、硬くないと言い張ったことがある。このフロントばあさんもそうしたタイプの一人だった。


荷物は西へ、身は北へ

 飛行機の旅も一日飛べばほぼ慣れる。少し気を使ったのは乗り換えのときだったが、一度こんなことがあった。
 ローマからフランクフルトへ向かうSAS機がミュンヘンに寄ってしばらく休憩したときだった。待合室で思い思いに時間を潰していると、また一団の旅客がぞろぞろと加わってきて、その中に二人の日本人婦人がいる。一人はやや年配で、もう一人は若い。
 いまのように、右を向いても左を向いても日本人がウロチョロしていないところはないという時世ではなかったから、日本を出てまだ数日なのに、同胞を見れば早くも懐かしいような心強いような気持ちになる。
 あちらもそうだったのだろう。選手と二人は早速話を交わし始めて、そのうちに年配の方が名刺を配りだしたので、見れば国会議員さんである。
 ブダペストだかブカレストだったか、とにかく東欧のある国で催された国際会議に出席した帰りで、ウィーンからいま飛んで来たのだが、これからはフランクフルトへ向かい、そこからさらにボンへ行くとの話で、もう一人の若い婦人は秘書嬢だということだった。それじゃ我々の飛行機に乗り換えてくるわけで、やがて我々が機中に戻ったら、議員女史と秘書嬢も続いて乗り込んできた。あとはスチュワーデスがシート回りを点検し、エンジンがかかり、離陸した。

 そうして、“シートベルトを締めて下さい”のサインが消えたら、2座席ほど斜め前にいた先刻の議員女史が、自ら僕のところにやって来て、頼みがあるという。はて何事だろうかと思ったら、実は荷物を前の飛行機に忘れてきたとのことである。
 つまり、ミュンヘンに着陸したのは単なる休憩で、フランクフルトへも同じ飛行機で飛ぶものと思い込んでいたので手回りの荷物を座席に置いたまま出てきてしまった。いま動き出してから別の飛行機への乗り換えだったのが分かってびっくりしたのだが、どうすればよいかという。思いもよらぬことなのでやや戸惑ったが、「スチュワーデスに訳を言えば、すぐ荷物を送り返してくれますよ」と、スチュワーデスに話すしか手はないことを教えたら、女史は、「では、スチュワーデスにそう言ってくれませんか」と、それも頼んでくる。一瞬、何だ、それぐらい自分でやればよい、と思ったが、義をみてせざるは勇なきなり、と考え直して引き受けた。相手が国会議員だからではなく女性だったからである。

 スチュワーデスに話しに行こうとしたら竹腰さんが、「何事だ」と聞く。かくかくしかじかだと言ったら、「オレが頼んでやる」と竹腰さんもやってきた。僕の英語では心もとなかったのであろう。スチュワーデスは、「承知しました。あの飛行機はもうロンドンへ向かっている。だからフランクフルトへ着いたらすぐロンドンへ連絡してなるべく早い便でフランクフルトへ送ってもらうように手配しましょう」とすぐ引き受けてくれた。議員女史には、明日にでもフランクフルトへ着くだろうから、ボンの大使館の人に取りに来てもらえば良い、ということまで教えたら、いささかあわて気味だった議員女史は、内心大いにほっとしたに違いない。国会議員の面目を失墜しない程度に「ありがとう」と言った。

 それにしても、ちょっと解せなかったのは、国際会議に日本代表で出席したというのに、なぜ自分で交渉しようとしなかったのだろうか、またその間、秘書嬢はなぜ始終一言も発せず窓外を眺めて我関せずと言わんばかりに動かず、その任務を果たさなかったのだろうか、という点だった。
 いや、そんなことは言うまい。旅は道連れ、世は情けだ。それにしても、我が遠征団のハプニングでなくてよかった。彼女たちの荷物が翌日無事戻ってきたかどうかは知らない。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年3月号)

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