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民泊の話

ホッホラマルク

 オッフェンバッハの試合を済ませて、このギーセンに着いたのが8月1日の深夜で、宿は大学の寄宿寮である。どうも落ち着かないで疲れもとれない。それでも、翌2日(日)の朝は、9時に起こされ、午前中は市長主催の歓迎会と市内見物に引きまわされ、夕方にこの町のクラブと試合した。昼食後、わずかな午睡をとったが、それもさして効き目はなく、試合は引き分け。元気だったら楽に勝てる相手だった。
 そのギーセンで2泊、3日の朝7時に出発。前日の試合で転倒し後頭部を打った村岡君に通訳のザール君を付けて、入院させて残した。バスでまたフランクフルトへ、そこからデュッセルドルフへはスイス航空の双発機で1時間。バスでまた1時間半、正午過ぎレクリングハウゼン市に着いた。この市の南の端の一区画を占めるホッホラルマルクというところが宿泊地だった。

 レクリングハウゼンはルール炭田地帯の一中心地で、地図を見ると市役所をはじめ中枢部は市の北端に近いところにあり、それから南の方に炭鉱の印が数ヶ所に散在している。ホッホラマルクはその一つで、いわば炭鉱の町である。バスが着いたら、子どもも大人も大勢が出迎えてくれた。大会が開かれるドルトムントへもごく近いので、ここに7日まで滞在して調子を整える計画になっていた。ただしホテルに泊まるのではなく民泊である。もちろん、生まれて初めて外国の家庭に泊まる者ばかりだ。
 以来、日本サッカーは外国遠征を度々やっているけれども、おそらく民泊の経験はあのとき限りなのではなかろうか。これも、見聞を広めるため、何でもしてやろうの一つだった。


松丸さんパイプをくわえて憮然

 当地の滞在は全て、プロイセン・ホッホラルマルク・スポーツ・クラブの招待で、クラブの本拠でもあるレストラン“シュルターさんの店”で会長のドクター・ヘルムート・ジーリングのあいさつなどを受けたあと、それぞれ泊めてもらう家の家族に迎えられて散っていった。2人同宿は2組ほどだったか、あとは離れ離れの一人ぼっちの分宿で、平素は心臓が強く威勢のいい連中も、少なからず不安な顔つきだった。
 僕自身も、戦争前の旧制高校で習ったはずのドイツ語がさっぱり出てこない。むしろ、中学以来の英語の方が出てくるが、その方は相手が駄目だった。ドイツでも戦争後は英語が相当広がったそうだが、中年以上の戦前派は弱くて、戦後派というか若い者の方が話せるということだった。残念ながら僕の泊まったボイグホルトさん夫妻は中年の戦前派、息子さんが2人いたが、高校生と小学生ぐらいで、若過ぎて結局誰にも通じなかった。
 仕方が無いので、単語を並べてあとは手まね身ぶりだ。日本ではちょっと照れくさいような大げさなゼスチュアでも、外国ならば案外気にしないで使えるから不思議。それで大体ことは済ませた。

 さて、夜になって、大会までの練習計画など考えていると、主人が「隣のシェフが呼んでいる」という。隣といえば、松丸さんがモッツさんという家にいるはずだ。「モッツさんか」と尋ねたら「そうだ」という。ははーん、松丸さんが呼んだのだなと気づいて出かけて行ったら、松丸さんが憮然としてパイプをくわえていた。
「いやー、困ったよ。何とかしてくれ」といわれるが、当方とて何ともならない。松丸さんはドイツ語が苦手なうえに、身ぶり手まねで気楽にやれるご仁でもない。例によってむっつりと黙り込んでいたら、モッツさんが気をもんで僕を呼んだらしい。
 松丸さんの話では夕食にはあれこれとご馳走を出してくれ「おいしいか」「もっと食べないか」などと大いに世話をしてくれるが、ダンケ・シェーンばかりも言っておれないので、応対の仕様もなく、つい酒ばかり飲んでいたと赤い顔だった。


頬が落ちそうにおいしい

 翌朝、朝食を済ませて“シュルターさんの店”に集まったら、通訳のザール君が2、3軒から呼ばれた程度で、さほどの難題も起こらず、みんな陽気ににぎやかだったので安心した。しかし、珍談が無かったわけではない。その一つを紹介しよう。もう時効だからよいだろう。

 傑作はS君の話である。
 ドイツ人が客人をもてなす親切さは、色んな形で表れていたが、S君の場合もその表れである。
 S君も夕食にたっぷりとご馳走を出されたので、食べ切れず相当残したら、お主婦(かみ)さんが「これは嫌いか、まずいか」と盛んに尋ねた。S君は、おいしかったがもう腹いっぱいだと言いたかった。だが、不幸にも学校では英語の他にはフランス語を習ったので、ドイツ語は全くのお手上げである。英語とフランス語は相手が分からない。日本語でも同じことだから、「うまい、うまい」と叫んでみたが、もちろん通じない。「腹が痛いか」などととんでもないことを尋ねたりする。
 お主婦さんが何回もしつこく尋ねるものだから、その意味はほぼ理解できるのだが、こちらの思いをどうして伝えればよいのか、困り果てた挙句に、S君は片手で頬をつまんで下方へ引っ張る格好をしてみせた。
 お分かりかな。頬が落ちるほどにおいしい、という意味である。もちろん相手に分かるはずもないが、S君はもうやけくそであった。と、不思議やお主婦さんは「おう、そう」と叫んで部屋を出て行った。逆にS君の方が驚いたが、とにかくお主婦さんが引き揚げてくれたのでやれやれである。
 ところが、しばらくしたらまたお主婦さんが現れて、これを飲めという。差し出されたものをS君がよく見たら、何とバイエルのアスピリン錠だったのである。お主婦さんはS君の所作を見て、てっきり歯が痛いのだと思い、親切にも痛み止めの薬を持ってきてくれたのであった。


地下450mにもぐる

 そんな笑い話もあったが、次第に慣れたようだ。
 それでも、はじめは疲れが容易にとれないので、できるだけ遠出の見物は避けて、あとわずかな大会までの調整を図った。
 ドルトムントへ移る前日の6日にノイエ・ツァイツング紙の招待で、ウェストファーレン地方のワッサーブルク(水城)を見に行った半日のバス旅行が、ただ一回の遠出だった。
 水城というのは、平地のために、まわりに堀をめぐらした城のことで、レンベック城とゲーメン城を観た。
 それも楽しかったが、ホッホラルマルクならではの珍しい経験は、地下にもぐった炭坑見学だった。
 5日の午前、疲れていない者だけだが、素っ裸になって作業衣に着替え、ヘルメットに坑内靴、胸にランプをぶら下げて坑内へ。エレベーターから降りたら地下450mだといっていた。  あちこちはいずり回って出てきたら、全身炭塵だらけけ、チャップリンの髭のようにみんな鼻の下が真っ黒になっていた。日本でも難しいこんな経験を、はるかヨーロッパで、しかもサッカーの遠征でできるとは思わなかった。これまた、何でも見ようの一収穫だった。

 ホッホラルマルク滞在中は、2日目の4日に夕方約1時間の練習、5日は希望者の炭坑見学と夜のプロイセン・クラブ主催の招待ダンス・パーティだけで、練習を休んだら疲労も次第にとれ、6日は水城を見物したのに、夕方の練習では相当調子を上げることができた。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年5月号)

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