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ドルトムント大会 その1

国際大学スポーツ週間

 日本を出て2週間経った8月7日(金)にいよいよ大会開催地のドルトムント入りである。歓迎攻めの過密スケジュールで披露した体もほぼ回復し、調子は上がってきたところであった。午前中は全員旅に出て初めての散髪をして気分もさっぱり。前日熱を出した筧君も元気になって、一行は昼過ぎにホッホラルマルクにしばしのさよならをして、バスで小一時間、ドルトムントに着いた。脳しんとうでギーセンで入院していた村岡君も、翌日には元気な姿を見せた。ただ平木君が扁桃腺を腫らしたのが気になるが、テラマイシンを飲ませる。

 その翌9日(日)に開会式が行なわれて大会は始まった。この国際大学スポーツ週間と呼ぶ大会はFISU(国際大学スポーツ連盟)主催で俗に“大学生のオリンピック”ともいわれる。第2次大戦前の国際学生競技会が、戦後東西の冷戦に伴いFISUも東西に分裂し、西側は大会を国際大学スポーツ週間と改名して第1回を1947年ミラノで開き、53年のドルトムントは第3回に当たった。そのあと2回目の1957年に、再び東西が合同して現在のユニバーシアードとなった。
 だからドルトムント大会は西側の大会だったが、当時ユーゴは西寄りの姿勢を見せていたので、ただ一つの社会主義国としてこちらに参加した。出場国は合わせて21ヶ国だった。競技種目はサッカー、バスケットボール、フェンシング、水泳、水球、テニス、陸上の7種目で、日本はサッカーの他、陸上、フェンシングの計3種目に参加した。サッカーには日本の他、西ドイツ、ルクセンブルク、ユーゴ、ザールランド、ベルギー、スイス、スペイン、オランダ、エジプトの10ヶ国が出場した。それを3、2、2、3と4組に分け3チーム組はリーグ、2チーム組は2回試合して、各組1位で1〜4位を、各組2位で5〜8位を、2つの3位で9、10位を争うことになり、日本は西ドイツ、ルクセンブルクと第1組に入った。


日独サッカーで開会

 日本の最初の相手は西ドイツで、午後4時からの開会式に引き続いて主会場のローテ・エルデ競技場で行なわれるように組まれていた。サッカーは会期の都合で実際には前日の8日にすでに3試合があって始まっていたけれども新聞はそれを数行の記事で片づけ、この日本対西ドイツを大会の開幕試合のように大々的に扱った。開会式という最高のセレモニーのあとに人気スポーツのサッカーを持ってきたのは当然としても、そこで日独をかみ合わせたあたりに西ドイツの気持ちがよくうかがえた。空は快晴に恵まれて観衆は溢れるばかりに3万、そこへ試合も実に好試合だったので大会は大いに盛り上がった。


追いつ追われつ痛恨のホイッスル

【日本】
 GK:村岡
 FB:平木、三村
 HB:小田島(井上)山路、高林
 FW:鈴木、小林、木村、長沼、徳弘

 キックオフは6時に近かったが、終わるまで明るかった。日本は立ち上がりから速攻で攻め立て、西ドイツも激しく攻め返すがチャンスは日本に多い。バーに当たったり、かすめたりの場面が3、4度とあるがどうもついていない。だが26分日本は先取点を挙げた。万雷の拍手だった。山路−木村が左へ回って右へパス、鈴木のシュートはバーに当たるが小林が拾って左隅に決める。
 西ドイツは必死に反撃、33分右−左−右と揺さぶり、RIクネーゼルのヘッドは村岡の正面をつくが、ぽろりと後逸して1−1。これは痛かったが、あとは立ち直って村岡は続くピンチを切り抜ける。

 後半も小林の中盤での働きと木村のスピードとシュート力を軸に攻めたが、17分山路捨身のタックルが反則となってFKから逆転された。バックスが壁を作るのに手間取っている間に、ドイツは抜け目なくCFファーベルが素早く右隅へ蹴って1−2。
 25分、今度は日本が小林−鈴木−木村の強烈なシュートで再びタイの2−2。すると31分にドイツの攻撃をCKに逃げたら再びクネーゼルのヘッドでまた離された。2−3。だが日本は闘志衰えず40分、山路飛び出して右からゴール前へ、小林懸命に突っ込んでのヘッドは見事に3−3と三度の同点。デュッセルドルフやフランクフルトから駆け付けた商社や留学中の邦人に、ホッホラルマルクのドクター・ジーリングらも加わってスタンドで日の丸を振ってくれる。
 しかし、それも空しく不運が訪れた。あと1分30秒のときCKをとられて、またもヘディング・シュート(CFファーベル)された。これをゴール・カバーの平木が、ライン上に膝をついて太ももで確実に止めたのだが、西ドイツ選手が両手を挙げてゴールインだとゼスチュアしたら、遠く離れていた主審は、それにつられたのか、あっという間に笛を吹いてしまった。歓声も上がったが口笛も鳴った。竹腰さんは怒ってタッチ・ライン際まで出て行ったが、判定はどうしようもなかった。


拍手で迎えられた食堂

 試合が終わって「あれは明らかにゴールに入っていなかった」とわざわざ慰めに来てくれたドイツ人の観客もいた。観衆の応援はフェアで、勝った西ドイツに対する拍手と劣らぬ拍手が日本へも送られた。徳弘君は協会への報告の手紙に「日本においてもあれほど気持ちよく敗れた試合を経験したことはありません」と書いたほどだ。だが歴史には試合内容までは残りにくく、負けた場合はその結果だけが残りがちである。選手たちはやり切れない気持だろうが僕も同じだ。ああだこうだ、と批評する気にもならず「よくやった、よくやった」と慰める他に仕様がなかった。

 シャワーを浴びてもなお重い足取りの選手を引きたてながら、ウェストファーレン・ホールの選手大食堂へ晩飯を食いに行った。良き敗者になることは難しい。だが、そのとき何が起こったか。数百人の各国選手が食事の最中だった。その選手たちは我々が入っていくのに気付くと、ナイフやフォークを置いて一斉に拍手で迎えてくれるではないか。「オー」と立ち上がって拍手してくれる者までいる。僕はこの拍手にどう応えたものかと戸惑った。強いて笑顔をつくり手を振ってはみたがぎこちない。選手も照れくさ気である。日本では敗れてこんな経験をしたことが無い。
 徳弘君は「すごすごと食堂へ引き上げたとき、我々を待っていたのは各国選手団の熱狂的な拍手でした。ややもすれば、試合に敗れたという事実に意気消沈する我々の態度を恥ずかしく思い、また各国選手団の温かい優勝に感激すると同時に、スポーツの何たるかを一瞬に教えられたような気がしました」と書いた。

 翌日の新聞を見たら、あるスポーツ新聞は「技術的には日本が上だ。ボール扱いは素早く老練だ。ドイツは体力に優れたのと地元という条件で勝った。日本は前半に不運にも2、3点逃したが、小林、木村、山路が目立った」と書いていた。ボール扱いが良いといわれたのはちょっと面映ゆいが、もう一つのスポーツ紙もやはり体力をドイツの勝因にあげて「だが小柄ながら体を張った日本の闘志は見事で、特に小さいが機敏なキーパー(村岡君のこと)と素晴らしい働きをしたインナー(小林君のこと)は印象深かった」と評し、また「開会日のハイライトは極東から来た日本と西ドイツの試合だった。3万の観衆は日本のフットボーラーに魅了された。オッフェンバッハ・キッカーズが彼らにとって非常に良い“スパーリング・パートナー”であったに違いない。ボール扱いには少し欠けるものがあったが、全員のスピードにはまさに唖然とした」と書いた一般紙もあった。いずれも日本を称賛してくれた。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年6月10日号)

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