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あるスポーツ記者の回想 〜クラマー、釜本邦茂、そして神戸一中のこと〜 By富樫 洋一


 子どもの頃は、神戸でも、やはり野球が一番盛んでした。ただ、サッカーも、3つか4つの小学校では、やっていたでしょう。師範学校でサッカーが行なわれていて、その経験者が神戸とか阪神間の学校で教えていたんです。僕のいた雲中(うんちゅう)小学校には、御影師範で全国制覇したときの選手もいて、子どもたちと一緒にボールを蹴っていました。
 僕らは、学校だけでなく自宅の前の路地で、よくサッカーや野球をしたもんです。神戸というのは坂の町で、南側のホーム・ベースからヒットで二塁ベースに行くのに、石段2段だったか、高さ60センチぐらいを飛び上がる。今から思えば、それで自然に足腰が強くなったんでしょうな。

 サッカーを本格的に始めたのは、神戸一中の3年生になってからです。初めは身体が小さいせいで、マネージャーをやっていたんですが、5年生(最上級生)になったとき、フォワード(当時は5人)に5年生がいないとまとまりが悪いから――ということになり、先輩の中に「賀川がいるやないか」と言う人もいて、お鉢が回ってきた。2年上にいた兄貴なんかは「あいつにできるんか」と半信半疑だったらしいですがね。他の先輩たちは、どうやら僕が全体練習のあと、いつもひとりでボール蹴りしていたのを見ていたらしい。それまでマネージャーとして、無茶苦茶厳しい練習スケジュールを立てたりしてたから、自分でやるのは嫌だったんですけど(笑)。しかし、一つ下の岩谷(俊夫:後の日本代表)に説得されて兵庫県大会に出場したら、4試合で6点、岩谷と合わせて11点も取ってしまって、引くに引けなくなったんです。
 ただ、神戸一中のサッカー部に入る前も、サッカー好きの仲間と、日曜日に港の突堤の倉庫の前で、ゴムマリ(軟式テニスのボール)を使って試合とかしてましたから。今でいう、2対2ですけれどね。小さなゴムマリのシン(中心)を蹴るため、相手をかわして、一つ浮かせて、そのショートバウンドをシュートする、くらいのことはやっていましたから。

 昔は御影師範が強くてね。大正から昭和の初めにかけて、師範学校ではサッカーが校技のようになっているところが多かったんです。しかも、一般の中学生より2歳年長者もいるのに、中学校の大会に出てくる。年長で体格も良く、全寮生活つまり一種の合宿を年がら年中やっているわけですからね。練習量も多いし、普通では勝てませんよ。なかでも御影師範が一番強くて、全国大会でも常勝でした。
 僕ら神戸一中サッカー部のずっと上の先輩たちは、この身体能力に優れた相手に何とか勝ちたいと、練習していた。それが大正13年のチョー・ディンさんの指導で、めきめき腕を上げて、御影師範に勝つようになったんです。

 チョー・ディンさんは、今の東京工業大学に来ていたビルマ人の留学生です。これが暇なときに、早稲田の高等学院でサッカーを教えていたらインターハイで優勝してしまった。それで、たまたま関東大震災(大正12年)で学校が壊れて授業が休みになっている間に、全国を巡回してコーチすることになったんです。そのチョー・ディンさんが、御影師範の招きで関西に滞在中、休みの日に宝塚歌劇を観に行くという情報を誰かが聞いてきたんで、帰りに待ち伏せして教えてもらおうということになった。神戸一中のメンバーみんなで「先生、教えてください」って(笑)。そうなると、本人もサッカー大好きだから、「よし、やろう」ってことになったらしい。宝塚のグラウンドで、たった一日、3〜4時間だけだったけど、みんな克明に記憶して、その教えを神戸一中の選手たちは生かしたんですね。
 御影師範のサッカーは、体格と走力を生かして、ロングキックと個人のドリブルの巧さ・強さで攻めてくる。これに対して神戸一中は、短いパスをつなぎ、それぞれのスタートダッシュを効かせて、相手の裏にスルーパスを通す攻撃に活路を見出した。そのショートパスの基礎になったのが、チョー・ディンさんに習った基本技。特にサイドキックだったんです。

 昭和17年に神戸商業大学予科に入ったんですが、前の年の12月8日には太平洋戦争が始まっていたので、当時の若者たちはみんな『死』というものに向き合っていました。サッカーは、昭和19年に特別操縦見習士官となって中断しました。昭和15年からは革製品が統制になってボールも配給制になっていた。僕らは中学校も予科も練習用のボールを自分の手で修理したもんですが、少し下の学年は、その修理をするボールもなくなったんですからね。それで工場へ動員されて、部活動をストップさせられたんですから、僕らよりも可哀想ですよ。

 僕は、飛行機乗りで特攻隊になったものの、戦争の終結で生きて帰ることになった。ということは、「死ぬ」と決めて死生観らしきものを持ったハズの若者が「もう死ななくてもよい」と急に言われたようなものですから、もう一度勉強しろといわれても、そう簡単には気持ちが切り替わらない。それで学校を辞め、自分で自分を見つめることにして、いわば浪人のような状態でいたんです。ところが、私が京都にいることを知った一中の先輩やらが声をかけてくれて、またボールを蹴ることになった。コーチをやらされたり、大先輩の藤田静夫さん(現・日本サッカー協会名誉会長)と一緒にプレイする機会を持つようになったんです。この時期は、チームと個人というものを非常に考えさせられました。

 産経新聞に勤め出したのは、昭和27年の1月からでした。前の年、スウェーデンからヘルシングボーリュというチームが来日したとき、「サッカーを知っている記者がおらんか」と頼まれて、京都の新聞に記事を書いたのがきっかけでした。記者になってみて、やっと自分に合った仕事を見つけたと思ったもんです。ものを書くことは好きだったし、もともと、試合をしながら冷静に分析する性格だからね。軍隊でも、上官に殴られながら、この人は剣道7段だから、さすがにパンチはすごいなぁとか客観的に見てた(笑)。

 初めての海外取材は、1959年の第1回アジア・ユース大会で、チーム付きマネージャー兼務でした。杉山隆一や宮本輝紀とか、のちの代表のタマゴもいたんだけど、高校生だけの海外遠征というのは初めてだったので、クラブ関東でフルコースの食べ方と、ナイフ、フォークの使い方を生徒たちに練習させたりしてね。
 その1年前に、東京で第3回アジア大会があって、そこで日本は地元なのに1次リーグ2敗という成績で、サッカー界はまさにドン底状態だったんですよ。それがこのアジア・ユースから徐々に上向きになってきたんです。それから、東京オリンピックに備えて、みんなも知ってるクラマーをコーチに招いたのが、日本サッカーの大きなターニング・ポイントでしょう。技術的にも、のちの日本リーグ創設にもね。

 釜本邦茂という、今や伝説的になってしまったストライカーを初めて見たのは、彼が山城高校の1年生のときだったか、西宮の高校選手権のときで、岩谷俊夫(当時の日本代表コーチ)が「一人見てほしいのがいる」と言ってきて、見に行ったんです。それ以来、彼が早稲田、ヤンマーと進み1984年に引退するまで、24年間見てきたわけですね。偉大な資質が開花し、峠を過ぎてゆく過程をずーっとね。もちろん、スポーツジャーナリストとして、少年少女期からトップに至るまでを取材した素晴らしい選手が他にいないわけではないけれども、何といっても釜本の場合は、身近な存在だったから、その印象は強いですね。だからインタビューで、プラティニの少年時代の話を聞いたり、ルンメニゲの成長期やキーガンがプロとしてスタートしたころ、あるいはケンペスの語るストライカーの特性を聞いたときに、釜本の同時代と比較できたのは、嬉しかったねぇ。

 釜本で思うことはね、今の日本、これからの日本のサッカーで大事なのは、トップチームが必要とするポジションプレーの技術を教え、選手の上達を図る、そういう個人指導のできる指導者だということ。釜本だって、周囲もいろいろバックアップしたけど、ベルリン・オリンピックのセンターフォワード、川本泰三さんの個人的なアドバイスなりヒントが、一人前になってからもプラスになったハズですよ。「サッカーはお金にならなかったけど、いい時代に育った」と彼はよく言うんです。早い時期から日本代表に入って、うるさい先輩がいっぱいいて、いろんなヒントをくれたって。

 サッカーをやって学んできたことは、新聞記者や飛行機乗りにも共通していることで、個人の判断力や個人の能力こそが重要だということですね。好きなスポーツを見て、トッププレーヤーたちの個性と、それによるチーム同士の戦いぶりを見て人に伝えるという素晴らしい仕事を続けてこられたことも、本当に幸福なことだったと思います。それから、素晴らしい先輩や仲間に恵まれ、いい後輩をたくさん持った。それは、スポーツでも軍隊でも記者稼業でも同じでした。そうした、いい先輩や世界中にいるいい仲間のことを伝えるために、もうちょっと生きて書き続けなければいかんなぁと思ってます。生まれ変わっても、もう一度記者に、それも、もう少し優秀なのになりたいですね。もういらんわって言われるかもしれんけど(笑)。


(STUDIO VOICE 1997年12月号 No.264)

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