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デニス・ベルカンプ(2)EURO92で見せた贅沢なゴール。3大スター合作のアシストを締めくくった


 20日、万博競技場でのACL(AFCアジアチャンピオンズリーグ)でG大阪の17歳の新星が登場し、FCソウルから1ゴールを奪って喝さいを浴びた。ドリブルもシュートも上手で、とても頼もしく見えた。
 1992年5月6日生まれの宇佐美貴史少年が、満1歳の誕生日を10日過ぎたときにJリーグがスタートした。いわばJとともに成長してきた世代で、この点から見てもヨーロッパや南米、アジアをはじめ世界のほとんどの国々と同じく、日本の子どもたちも物心がつき始めたときにはサッカーが目の前にある――という環境に近づいてきたと言える。国際レベルのストライカーが育ち、日本のサッカーがいよいよ面白くなりそうだ。

 さて、表題のデニス・ベルカンプ――1969年5月16日生まれのこのオランダ人のプレーを初めて見たのは92年スウェーデンでのヨーロッパ選手権大会だった。
 この大会はソ連・東欧の社会主義体制の崩壊に続くコソボ紛争のために、ユーゴスラビアが国連の制裁措置を受け、それがスポーツにも及んで、地域予選第4組で首位になりながらもユーゴスラビアはEURO92への出場権を失い、代わって同組2位のデンマークが参加した。それだけでも異変なのに、大会直前に代替出場の決まった、準備も十分でないはずの彼らが、88年欧州チャンピオンのオランダ、90年ワールドカップ優勝のドイツなどを倒して優勝してしまった。まさに「フットボールでは何が起きるか分からない」だった。

 デニス・ベルカンプはこのとき23歳。子どもの頃からその才能は光り、アムステルダムの名門アヤックスで86年に16歳でデビュー。92−93シーズンまで7年間プレーし、リーグでは157試合に出場して77ゴールを記録していた。90−91シーズンは25得点(33試合)91−92シーズンは24得点(30試合)でともにエールディビジの得点ランキング1位だった。彼は次のシーズン(92−93シーズン)も26得点(28試合)を積み上げ、3年連続リーグ得点ランキング1位となっている。
 付け加えるなら、90−91シーズンの1位は一人ではない。PSVアイントホーフェンのブラジル人FWロマーリオも同成績で1位を分け合っていた。

 EURO92は地域予選を勝ち抜いた7チームと開催国の合計8チームをスウェーデンに集め、ストックホルム、マルメ、イエーテボリ、ノルチェピングの4都市で開催。4チームずつ2組の1次リーグを経て、各組上位2チームが準決勝、決勝へ進む80年以来の形をとっていた。
 1組はスウェーデンにフランス、デンマーク、イングランド。2組はCIS(ソ連)ドイツ、オランダ、スコットランド。多くの人はドイツとオランダの争いと見ていた。
 そのオランダの最初の試合は6月12日、会場はスウェーデン南部の港町マルメで、相手はスコットランドだった。第2戦は6月15日、イエーテボリで相手はCIS、第3戦が6月18日、やはりイエーテボリでドイツと対戦した。

 90年のイタリア・ワールドカップでは調子の上がらないまま、第2ラウンドの1回戦でドイツに敗れたオランダだったが、ルート・フリット、フランク・ライカールト、マルコ・ファンバステンの大物が揃い、ロナルド・クーマンがDFの要を務める。このチームは、かつての勢いはともかく、スケールの大きさと高い技術の組み合わせが素晴らしかった。その超大物に混じって金髪の若者が果敢に、巧みに走っていた。ファンバステンほど大きくはないが183〜184センチ、しっかりした骨組みに見えた。
 それがデニス・ベルカンプだった。
 スコットランドの堅い守りを突進しては崩し、左へ流れて左足でシュートし、右で強いボレーを叩いた。
 唯一のゴールも彼だった。右のフリットからのパスをニアサイドのファンバステンがヘディングで後ろへ。それをライカールトがヘディングでゴール前に落としたのをベルカンプが決めた。
 スコットランドのGKアンディ・ゴーラムが調子づいて、タイミングの読めるシュートでは陥落できないと見た3人のスーパースターの協同作業を若い彼が締めくくったところが面白かった。と同時に、彼のパパが願ったように、あの60年代のマンチェスター・ユナイテッド“金髪の悪魔”デニス・ローにこの若者が近づくかもしれないと思った。


(週刊サッカーマガジン 2009年6月9日号)

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