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デニス・ベルカンプ(3)EURO92で、先輩デニスばりに後方から走り上がり見事なゴールを演じた


 27日、大阪の長居でのキリンカップサッカー2009。
 日本代表対チリ代表でスタジアムに集まった4万3,531人のサポーターとテレビの実況を見続けたファンは日本の4ゴールのスペクタクルなシーンに大喜びした。
 強いシュートに続くリバウンドを決めた先制ゴール、サイドからのタイミングの良いクロスパスを受けてのドリブルシュートの2点目――岡崎慎司の2得点と、遠藤保仁の右CKをヘディングした阿部勇樹の3点目、さらにカウンターで左サイドから香川真司、矢野貴章、山田直輝とつないで本田圭佑が決めた4点目はゴールを奪う楽しさを充分に味わわせてくれた。
 相手のチリ代表が攻撃的であったおかげで、「守りを厚くする」アジア勢との戦いとは違った展開となったとも言えるが、岡崎や本田の、それぞれが持つゴール奪取の基礎の力を試合の中で見られたのだから、走り込んでのシュートや、強く正確に蹴る力を備えることの大切さを折にふれて強調している私にとっても、とても楽しい夜だった。


 さて、ベルカンプの話――。
 アヤックスで育ち、オランダ代表で活躍し、アーセナルでサポーターにも愛されたこのストライカーは、スペクタクルなゴールシーンを演じたことでも知られている。JFAミュージアムの「サッカー殿堂」より少し前に創設されたイングランドの「ナショナル・ミュージアム」の「ホール・オブ・フェイム(名誉の殿堂)」にも、デニス・ベルカンプの名が掲げられているが、そこでも彼のビューティフルゴールが讃えられている。

 92年の欧州選手権(EURO92)で、私は初めて彼をナマで見たとき(前号参照)、マルコ・ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトといった彼より少し年長の大スターの作ったチャンスを締めくくるという彼の幸運に驚いたものだ。
 そしてまた後方から走り込んでフィニッシュを決める23歳のベルカンプに彼の父親が憧れた「金髪の悪魔」デニス・ローの面影を見た。
「父親がイングランド・サッカーのファンだったおかげで、子どもの頃、ロンドンまで試合を見に行くこともあった。当時のトッテトムの名選手グレン・ホドルが私の憧れだったが、父はマンチェスター・ユナイテッドに熱中していた。そのため、私が生まれたときに、役場に届けた名がデニス・ローの名をとってDenisだった。役場の係が、nが1字の場合はオランダでは女性の名になってしまうからとアドバイスしたので、nを2字にしてDennis Bergkampとなった」とは、ベルカンプ本人の話だが、子供部屋のベッド脇には「金髪の悪魔」のポスターが貼ってあったという。

 1940年、スコットランドのアバディーンに生まれたデニス・ローは、ハダーズフィールドでプロになった頃は華奢な体つき、身長も174センチと大きくはなく、激しいプロの中で耐えられるだろうか――と心配されたそうだが、やがて、そのスピード、ジャンプ力、ボールテクニック、そしてゴールを決める能力でファンを驚かせ相手の脅威となる。60年にマンチェスター・シティに移り、ここでの活躍を足場に61年にはイタリアのトリノFCに破格の移籍金で引き抜かれた。
 セリエAは彼に合わなかったのか、1シーズンでイングランドに戻る。彼を迎えたのはマット・バスビー、マンチェスター・ユナイテッド監督だった。ここで10シーズン、彼は309試合171ゴールの大活躍で、監督の期待に応え、ボビー・チャールトン、後に加わったジョージ・ベストとともに、ユナイテッドのスーパー・トリオとしてチームの数々の栄光を築いた。

 残念ながら、彼のナマは晩年の74年ワールドカップでチラッと見ただけだが、78年ワールドカップ(アルゼンチン)のときにブエノスアイレス−メンドサ間の飛行機で隣席となって以来、EURO80(イタリア)などで顔を合わせて言葉を交わすようになり、サッカーの話も聞かせてもらい、身近な存在となった。
 そのデニス・ローの特長は「理想的なインサイドフォワード」と呼ばれたとおり、攻撃的ミッドフィルダーの位置から走り込んでチャンスを決める、今でいう「2列目からの飛び出し」に特長があり、アクロバティックなシュートや驚くほどのジャンプ力を生かしてのヘディングシュートで喝采を浴び、ユナイテッドのファンは彼を「キング」と呼んだ。
 そのローにあやかってデニスと名付けられたベルカンプが2列目から、金髪をなびかせて突進して、ゴールを決めた92年のEUROでの印象は、私にはまことに鮮やか、この大会と次の94年ワールドカップ(米国)で、彼は私の心に残るストライカーとなった。


(週刊サッカーマガジン 2009年6月16日号)

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