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「年齢制」の意味 技術の向上と組織・運営


スポーツ本来の分け方

――組織全体が技術の効果を上げる環境をつくるという問題。その組織の中には、技術の向上を阻んでいるいろいろな要素があるのではないか、ということで、これは大谷さんが前から言われている「年齢制」のことがあると思うのですが、この「年齢制」の意味について、詳しく聞かせてください。

大谷 今のサッカーが立っている土台というか、組織、機構がそれでいいのか、ということを考えた時に出てきたのが「年齢制」だった。それ以前、従来からやってきているのは学校制度を中心としたあり方だった。メキシコ五輪以後の停滞ぶりから考えてみたら、サッカーに限らず、日本のスポーツの大部分が学校制度というものを中心に組織されているところに、一つの大きな問題があるのではないかと思った。たとえば、モントリオール五輪について考えてみたら、全体として頭打ちだという感じがした。サッカーだけの問題ではない。他のスポーツでも同一の条件である、というと、どういうことかといえば、みんな学校スポーツの上に乗っている。そして、大人の部分は企業の上にである。他の国では、ほとんどそういうことはないのではないか、まあ世界各国のことをそうはっきりとは知らないが……日本だけの特殊なあり方ではないかと思う。“自由社会”でのスポーツのことで言っているわけだが、ほかに学校制度の勢力の大きいのではアメリカがあるが、それ以外では、学校の選手がその国の第一線を形づくっているところはほとんどない。ユニバーシアードなんかでも、学生であれば出られるわけで、学校のスポーツでやっていなくてもいい。昔、ドルトムントのユニバーシアードの大会でも、サッカーの選手はみんなアマチュアのクラブの選手が出てきた。

――日本には、そういった意味でのクラブはありませんからね。

大谷 日本に企業スポーツが第一線に出てきたのは大戦後で、それまでは、大学で終わっていた。兵役があったからみんなそっちへ行ってしまう。つまり、学校スポーツとして育ってきた。今は、学校スポーツと企業スポーツがあるわけだけど、しかしそういう区分は、決してスポーツ的ではなく、社会的な分野の分け方というか、教育制度と、職業的なものに絡んだわけ方だ。これはスポーツ本来の分け方ではない。競技会の種別も、中学、高校、大学、そしてなにかはっきりしないが、社会人大会というようになっている。しかし、スポーツ的に分けるとすれば、男と女、年齢のこれしかない。年齢というのは、体力が年齢と関係してくるものだからで、これは世界各国がやっている。つまり、学校制度――職業人という各分野の分け方はスポーツ的でないといえるわけです。これが、ここ数年、コーチなどがトレーニングの方法などいろいろ言っているが、各スポーツが頭打ちになっている最大の壁ではないかと思う。
 その壁というのは、学校制度に頼っていること自体が壁であるということです。スポーツというのは学校制度や職業と関係ない存在でしょう。だからそういうものに頼ったり、そういうもののうえに乗ったりしていてはいかんわけです。しかしある程度、今、ここに頼らないわけにはいかない。大部分、ここに優秀な選手がいるんだから。けれど、スポーツがそれ以外の分野にもあるんだということを認めないといけない。学校制度と企業のスポーツ、それしか考えてないのが、今の日本のスポーツ界のあり方なんです。


“中高大会”のクラブ参加

――スポーツ本来の分け方でないところに乗っていることに問題がある。

大谷 つまり、スポーツ以外の制度の上に乗っているということは、それ以外のものから発生してくる規制を受けるということなんです。それがいかんわけです。

――企業だったら会社員であるということで……。

大谷 結局企業の枠から出てはスポーツができないということ。簡単にいってしまえば、企業がつぶれたらもう終わり……不安定になってくる。スポーツとして独自に存在しないかんものが存在できなくなる。スポーツ以外の規制力のないところに、スポーツが乗っていないといかんわけです。
 学校制度の場合をとっても、それに乗っているために、小学、中学……と6−3−3−4制ですか、それごとに指導者が変わってくる。職業人になるまで変わらざるを得ない。そうすると一貫した指導をしようと思ってもできないわけです。すべてがそれに乗ってたから救われる余地がなかった。しかし、今言っているのは歴史的に乗っていたんだから、つぶしてゼロにというわけにはいかない。依然として、90何%は、そういうものに乗って当分はいかなければならない。ただ、それにとらわれずに考え方はそこから脱却する必要がある。

――これについていろいろ対策を立てているようですが……。

大谷 その枠内で一貫性を出そうとしても、人が変われば、大きな組織で大まかなことを言っても、サッカーの統一を、たとえば指導者講習会でいくらやっても、指導者がAとBでは、同じことを次の段階へ引き継ぐことはできない。まあ、子供から大人まで変わったらいかんとはいわないけれども、問題は非常に重要な時に変わるということです。また、その期間中に勝負をつけなければならないという問題もある。1年ごとに、大きくみても3年ごとに、まあ3年計画が最大のもので、今勝つチームをつくる必要がある。大人になったら勝つチームをつくるんだといっても、まわりは許してくれない。また、5年後にいい選手になるからといっても、次の指導者もそういう選手を生かしてくれるかどうか、つまり最後まで面倒をみられない。

――これは非常に問題が大きい。

大谷 そこで、その対応策として、サッカーに関して言えば、種別の分け方を、これまでの学校制度を軸とした第1種から第6種までの分け方をやめて、「年齢制」に変えた。これは、国体もだいたいその方向に向かっているし、個人の競技では、すでに、そういう方向に向かっているものもある。ただ、団体競技ではないでしょう。

――あまり聞かないですね。

大谷 サッカーはそこから出発しなおそうとした。それはよかった。しかし、現在のところは、登録制ということに関して、チームの協会への加盟登録という制度についてのみ年齢制を一応とった。だから、それを出発点として、その加盟登録の種別に応じて、大会の在り方を整理していく必要がある。ということは、第1種(年齢を制限しない選手によって構成されるチーム)には、これは天皇杯ですね。第2種(19歳未満)、これに対しては高校選手権大会という高校チームだけ参加できる大会がある。第3種(16歳未満)も第2種と同じく中学校チームだけが参加する中学生大会、そして第4種(13歳未満)には、一応今年から天皇杯と同じように、みんな参加できる全日本少年大会ができた。
 これらを日本協会だけでなく、地域ならびに府県へ、地方についても整備しないかん。そこで、この競技会についていえば、第1種と第4種だけは目鼻がついているわけだが、年齢別にしたということで、当然あとの第2種、第3種にも、クラブや同好会(一種のクラブともいえるが)のチームが単一学校でなくても、出られるようにする責任があるわけです。
 登録費も払うわけだから、登録したチームにはすべて、同じチャンスを与えてやる。そのなかで、学校制度にのっとったチームが、自分たちだけの大会をやることは、なんら差し支えないことだと思う。これは協会の責任でなく、協会の責任は、種別ごとに登録したチームが平等の出場権をもった競技会、こちらの大会を催すことなのです。


学校スポーツと自主性

 これは余談だが、日本に外国のスポーツが入ってきた経過をたどると、東京高師(筑波大学の前身)をはじめ、みんなまず学校へ輸入され、普及してきた。そして、大きな特徴としては、学校の正果に取り入れられたり、あるいは課外活動など、みんな大きな教育という枠のなかでやられた。これはどういうことかと言うと、教育という窮屈な枠の中でいわゆる闊達なところが殺されたというところがある。第二次世界大戦がすんでからも、その考え方は変わっていない。
 スポーツは、もっと自由というか、そういった枠から離れる。簡単にいえば、スポーツは遊びなんだということはよく承知だと思うけど、しかし、習い始めてから数年学校でやっているから、本当の遊びとしては許されないわけです。ということは、教育の枠内だから、好きなんだが、おもしろくない。ルール以外のものが、規制力としてくるからで、学校のためだとか、ふしだら、上下関係……。みんな教育の場で、OBと先生、この二つの目ににらまれている。
 それは、強制された気分ということでもあり、この好きだということと、いやだということの双方を両立させてやらねばならない。こういったケースは割合ありますよ。結局、のびのびやれない、伸びない、ということとともに、自主性がないということになる。その自主性のないということが、非常に大きな壁だと思う。

 学校制度の壁というのは、先に言った一貫性がないというのもその一つだが、具体的には自主性は大きな問題だ。学校、先生、先輩の意向の中でしかやれないわけで、サッカーなんかはもっともっと自主性がほしいスポーツです。ことにおかしいのは、戦後は自由な教育になったはずなのに、そうでない。あまりにも、周囲の監視の目が多すぎるということもある。まだ戦前は間延びがしていた。口はうるさく言っても、もっと“悪いこと”もできた。学生だから大目に見てやれということもあったのだけど、それが今はすぐに新聞に載ったりするから……。企業のスポーツでもそうだが、経営方針のなかでスポーツをさせているわけで、職業、学校というもの、つまり“仕事”というものから離れた気分でやらないと、スポーツは成り立たない。そういうところからサッカーも競技会を整備してもらいたいと思うわけです。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1977年10月25日号)

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