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黄金期を迎えた60年代

 大戦中にもチェコスロバキアはプラハを中心にリーグを続け、ナチス占領下でも国際試合などが行なわれていたが、45年に大戦が終わると、48年には社会主義体制の共和国として足を踏み出す。

 スパルタ・プラハとスラビア・プラハという伝統あるチームに、デュクラ・プラハが新しい勢力として加わるのも、この頃からだ。ソ連のディナモ・モスクワがイングランドへ遠征して、トッププロを相手に勝利を収めて世界を驚かしたあと、50年代にはハンガリー代表チームが「マジック・マジャール」として欧州に君臨するなど、社会主義国のサッカーが国際舞台で脚光を浴びる。

 こうしたソ連やハンガリーに少し遅れてチェコスロバキアも60年代にヨーロッパの花形となる。

 それはまず、1958−60シーズンの欧州選手権。1回戦はデンマークと1勝1分け、2回戦はルーマニアに2勝し、準決勝ではメルボルン五輪(56年)のチャンピオンソ連に0−3で敗れたが、3位決定戦でフランスを破って入賞。優勝はソ連、2位はユーゴと上位は社会主義国の代表チームだった。

 その2年後の62年、チリで開催されたW杯でも、チェコは決勝に進出。決勝ではブラジルに敗れたが堂々たるランナーズアップだった。プラスカルとポプラールの2人のセンターバック、その後ろに控えるGKシュロイフのディフェンスは固く、左のMFマソプストのパスワークと得点力は他のチームの脅威だった。

 ブラジルとの決勝は、どういうわけかGKシュロイフに思わぬミスがあって、勝つことはできなかった。28年前の34年の決勝でも、GKパネンカの調子がよくなくて負けている。これも何かの宿縁かも知れない。

 この62年の代表チームも、いわゆるダニュービアン・スタイル。技巧的でショートパスをつなぎ、時にロングパスを混ぜ全体的にスローテンポ。“遅い”という言葉は、日本のコーチたちが禁句のように嫌うのだが、私はチェコのスローな展開に一つの美しさを感じていた。こうした“緩”を基調としながら、鋭さ、速さが、時に混じれば、有効な攻め手になると思っていた。


(サッカーダイジェスト 1991年4月号「蹴球その国・人・歩」)

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