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デニス・ベルカンプ(5)94年W杯、ファンバステンとフリットを欠きながら、ベスト8でブラジルと対戦


 日本代表のアジア予選突破という嬉しい成果に関して、番外編を2度はさんだためにデニス・ベルカンプ(オランダ代表、アヤックス、インテル、アーセナル)の連載は2週の休みのあと、第5回として再開させて頂きます。

 ベルカンプが生まれた1969年は、日本のサッカー史でいえば、あのメキシコ・オリンピック(68年)で銅メダルを獲得した翌年――だが、オランダ・サッカーもまた上昇期にあった。65年――彼が生まれる4年前に、アヤックスは新しい監督、リヌス・ミケルスと契約している。彼によって開発されたトータル・フットボールでアヤックスは欧州チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)に3年連続優勝(71、72、73年)そして、74年のワールドカップ(W杯)でオランダ代表は斬新なプレースタイルで世界中を驚かせ、世界のサッカーに革命を起こした。

 ベルカンプがアヤックスに入り、トップチームの一員としてプレーした86−87年には、5歳年長のマルコ・ファンバステンがいた。次の年にミランへ移るのだが、ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールト、ロナルド・クーマンといったスーパースターの出現で、オランダは第2の黄金期を迎え、EURO88(ヨーロッパ選手権)に初優勝する。
 そのビッグ4のあとを継ぐ者と期待されたベルカンプのアヤックスでの成長と、オランダ代表として初めてヨーロッパ選手権に出場した92年スウェーデン大会での働きを紹介したのが、第1〜4回までだった。

 私が初めてデニス・ベルカンプを生で見たのも、この92年大会――。以来94年W杯(アメリカ)96年ヨーロッパ選手権(イングランド)98年W杯(フランス)と3つの国際大会で彼のゴールに絡む見事なプレーを見ることができた。
 これらの大会での評価で得た彼の名声は95−96シーズンから11シーズン在籍したプレミアシップ(イングランド)の名門、アーセナルでのプレーでさらに高まった。93−94、94−95シーズンにいたインテルでは十分に働いたとはいえなかったが……。

 94年アメリカW杯は、世界トップのスポーツ国でありながら、世界で最も盛んなスポーツ、サッカーではメジャーでない不思議な国で開催され、アメリカと地域予選を勝ち抜いた23チーム、合計24チームが6グループに分かれての1次リーグで、各組上位2チームと3位の中から成績の良い4チームを加えた16チームによるノックアウトシステムで行なわれた。
 6月17日、シカゴ・ソルジャー・フィールドでの開会式から7月17日のロサンゼルス、パサデナのローズボウル競技場でのブラジル対イタリアの決勝まで、広大なアメリカ合衆国の9会場で52試合が行なわれて、ブラジルが4度目の優勝を遂げた。
 オランダはグループFに入り、6月20日、ワシントンでの対サウジアラビアに2−1で勝ち、25日、オーランドでの対ベルギーは0−1で敗れたが、29日、同じオーランドでの対モロッコを2−1で制して、2勝1敗、得点4、失点3で第2ラウンドに進み、1回戦の対アイルランド(オーランド)は2−0で勝って、ベスト8に進んだ。
 準々決勝の相手はブラジル。前半0−0のあと52分に先制され、62分に2点目を奪われた。2分後にベルカンプが1ゴールを返して追い上げムードとなり、76分にビンターが同点としたが、その5分後にFKで3点目を失った。

 ベルカンプは5試合にフル出場し、対モロッコで1得点、対アイルランドも開始10分の先制点。対ブラジルは追撃の得点となる1点目――と合計3得点(5試合)している。
 EURO92のときと違って、ファンバステンは故障で、フリットは意見の違いでと、超大物の2人が不参加だった。第2列からの飛び出しの得意なベルカンプにとって目標となり、ポストともなるファンバステンがいないのが問題だった。
 第2ラウンドの1回戦で顔を合わせたアイルランドはジャッキー・チャールトンが監督を務め、守りが堅く、1次リーグではイタリアをも破っている。
 先制ゴールは相手DF同士のヘディングのこぼれをマルク・オフェルマルスが奪って、走り抜けてベルカンプにパス、それをベルカンプが決めたが、このときの2人の高速突破はまさにオレンジサッカーそのものだった。


(週刊サッカーマガジン 2009年7月14日号)

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