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加藤正信先生のこと


 加藤正信先生の推進力がなかったら、たぶん神戸フットボールクラブ(KFC)は誕生しなかっただろうし、御崎の神戸中央球技場もあれほど早くできなかったろう。そして、また少年サッカーが1964年の東京オリンピックののちに、あれほど急速に広まったかどうか――。
 1990年、KFCが創立20周年を迎える年に、記念式を待たずに急逝された正信先生を偲ぶとき、誰もが、第一に思うのは、あの実行力。いいとなれば、すぐスタートし、障害を乗り越え、押し倒して進むエネルギーには、ただ感嘆する他はなく、それでいて単なる猛進でない気配りの妙には、敬服の他はなかった。


■ドクターと加藤家と我が家

 先生に初めてお目にかかったのは、昭和15年だったか、旧制・神戸一中(現・神戸高校)の4年生、体育館(雨の日)で練習していたときだった。
 当時の習慣として、先輩が練習を見に来れば、必ず何か話を聞かせてもらったハズだが、私は、その内容は記憶にない。ただ当時軍医大尉だった先生の軍服姿の偉丈夫ぶりが、さして明るくもない体育館での情景として今も頭に残っている。
 加藤先生の父上、つまり、今KFCの事務局長をしている寛クンのお祖父さんもドクターで、同じ熊内橋にいた我が家では父も祖母も臨終を大先生に立ち合って頂いたし、私も子どものときによく診てもらった。その大先生は「ムスコ達がサッカーにこってしまって……」と母に話しておられたそうだ(正信先生より4年下の弟・元信さんも、神戸一中・神戸高商でプレーした)。
 1924年(大正13年)生まれの私が神戸一中43回卒で、元信さんが35回、正信先生が31回。元信先輩は後輩の練習にもよく来て下さった。


■神戸一中、六高で全国制覇

 1912年(明治45年)1月生まれの先生は、1990年(平成2年)2月1日に亡くなるまでの78年間のほとんどはサッカーに関わり、少年サッカーの生みの親となった。
 神戸一中時代、先生が5年生(最高学年)のときに全国大会に優勝した。この昭和5年1月に行なわれた第12回大会には京都師範に藤田静夫(現・日本協会会長)市岡中学に川本泰三(ベルリン五輪代表・故人)神戸一中に右近徳太郎(ベルリン五輪代表・故人)大谷一二(極東大会代表・東洋紡相談役)東京・高師付属中学には立原元夫(ベルリン五輪代表・故人)などがいた。

 岡山の旧制第六高等学校でも正信先生はサッカーに打ち込み、昭和6年と昭和8年のそれぞれ第8回、第10回の(旧制)インターハイで優勝している。先生が主将だった第10回大会では準決勝で早稲田高等学院(早大の予科)を破っているが、このときの早高には関東大学リーグの早大のレギュラー、つまり、のちのベルリン五輪の代表がずらりといた。その強チームに対する六高の勝利は、インターハイの伝説として生きている。

 青春をサッカーとともに過ごした先生は昭和12年から軍医となり、大戦後1955年(昭和30年)から神戸で開業、しばらくするとムシが台頭する。大戦直後のインターハイで六高の後輩たちが京都へ試合に出てくると、岡山から米を運んで宿舎に届けたという先生にとっては、神戸高校をはじめとする兵庫県のチームが高校大会で優勝できないのもガマンならないし、芝生のグラウンドが欲しいといいながら、天皇杯でも、雨が降れば泥んこになってしまうフィールドで試合をしている実情にもやり切れない気がしたらしい。


■芝生のグラウンドをつくれ

 1960年(昭和35年)5月、大阪・うつぼ競技場での天皇杯は古河電工が圧倒的な強さで優勝し、日本選手権を実業団チーム、つまり企業チームが初めて優勝するという画期的な大会だったが、先生はそんなことより大会会場のフィールドのお粗末さ、スタンドの小さなことにハラを立てた。大会が終わってすぐ武庫之荘の我が家の電話は、先生との長いやり取りで占領された。

 日本協会や関西教会へ「芝生のフィールドをつくれ」「サッカー教室を始めよう」「世界一流チームを毎年招こう」「愛好者の総力を結集しよう」といった呼び掛けをしたが、ときの日本サッカー界は東京での第3回アジア大会(1958年)の1次リーグで敗れ、1960年ローマ五輪のアジア予選に負けて、まさに「どん底」時代。協会を構成するメンバーは、先生の意見と同館であっても、先立つモノもなく、ただひたすら、東京オリンピックの開催に便乗してトップを強化し、関東周辺に芝生のグラウンドをつくってもらうことを望んでいた。


■サッカー友の会5つの夢

「兵庫サッカー友の会」が先生の提唱で創設されたのは昭和38年(1963年)12月29日。東京オリンピックが10ヶ月余に迫っていた。
「友の会」という組織は、京都でひと足早く生まれていた。それに倣いながら、正信先生は、それまで兵庫のサッカーの復興を話し合ってきた仲間と次の5つの願いを掲げた。

【5つの夢】
(1)少年サッカーの普及発展
(2)誰でも入れるサッカーチームの編成
(3)国際試合のできる専用球技場の建設
(4)芝生のサッカー場、特に少年専用の建設
(5)サッカー王国、神戸・兵庫の再現

 玉井操(当時の日本協会副会長、関西協会会長・故人)田辺五兵衛(関西協会副会長・故人)らの協会首脳や、大橋真平(故人)空野章らの御影師範(のちの兵庫師範、現・神戸大学教育学部)のOB、そして神戸一中OBの北川貞義(故人)らの同志が集まり、会員数は1,007人と予想以上の多数だった。

 少年サッカーの普及発展といっても、小学生の対外試合が禁止されていたころだから、練習や試合中の事故の責任はどうするのか――など問題は山積していた。したがって指導者の人選も慎重になり、当時の最高のコーチ岩谷俊夫が頼まれることになる。私より1年下だった彼は日本協会のコーチであり、クラマーからも指導力を買われていた一人だった。
 勤めていた毎日新聞と日本協会の主催事業である全国高校サッカーの正月開催を控えた超多忙な彼が、12月末の3日間も、発足したばかりの友の会主催のサッカー教室の主任コーチを務めたのも、正信先生の熱意をバックアップしようという彼の熱意からだった。

 この頃の一つの問題とそれに関わったメンバーについて書いてゆけば紙数は限りなく膨らむから、この一例に止めるが、こうしてスタートした友の会は、OBチームをつくって「京都の友の会OB」と試合をしたり、翌1964年10月、東京オリンピック後のアフター・オリンピックの試合のときに、小学生チームの模範試合、中学生会員の選抜チーム戦を開催して、少年への機運を高め、1965年(昭和40年)4月11日の神戸少年サッカースクールの開設となる。


■常設の少年サッカースクール

 東京オリンピックで日本代表がアルゼンチンに勝ち、ベスト8に進出して世間、マスコミの評判となった。この翌年にスタートした日本サッカー・リーグは、アマチュアスポーツ、というよりプロ野球以外の初の全国リーグということで注目され、同じ年に神戸で始まった常設の少年サッカースクールはサッカー人気を大いに高めた。
 少年を対象にした講習会は、それまでもあった。しかし、年間を通じて定期的にスクールを開設するというのは、その頃の全く新しい考え方だった。東京オリンピック直後に集まった友の会の会合で、まず何をするか、ということになって、昔の私たちは毎日、小学校の校庭でボールを蹴っていた。今の子どもはそうではない。中学校に入ると正課体育の科目にサッカーは取り入れられているが、もっと年少のときにボールに触れてもらおう。それには小学校への働きかけも大切だが、日曜日に恒久的なスクールを設けようということになった。

 兵庫県には御影師範という教育系の学校があってサッカーが盛んで、そのOBは、小学校でサッカーを教えていた。それが各中学校(旧制)でのサッカーのレベルアップに結びついていた。したがって当時にも“サッカー自慢”“足自慢”はたくさんいたが、クラマーが持ち込んだドイツ式サッカー、近代サッカーを習っていない人たちには、自分たちが直接コーチに当たるには、ちょっと不安もあった。そこで、サッカースクールは、▽玉井操校長▽岩野次郎・副校長▽大橋真平・総務部長▽加藤正信・教務部長とそれに▽岩谷俊夫・指導部長というスタッフとなった。小学生14人、中学生48人が灘区土山町の神戸外大グラウンドの開校式に集まった。


■スクールの発展と法人格クラブ

 新しもの好きのマスコミが取り上げないハズがない。
 今なら少年サッカーは盛んなのは当たり前で、少年がラグビーやアイスホッケーをすれば記事になるが、サッカーや野球をやっているのではテレビにも活字にもニュースにはならないが、この頃は東京オリンピックが終わって、スポーツへの関心は高まったものの、何も目新しいことのなかったときだったから初めての全国リーグ(日本リーグ)と常設の少年サッカースクールは新鮮な話題となった。勢いづいた少年スクールは生徒数が増大し、やがて専従のコーチを置く必要に迫られる。

 専従コーチを置くためには、友の会を法人格にしよう。それなら、かねがね考えていた欧州型のクラブをつくろうということになり、1970年(昭和45年)12月22日の「社団法人神戸フットボールクラブ」の誕生へとつながる。
 その45年法人化を前に、じゃあ、友の会は何をしたか、はじめに掲げた5つの夢はどうだったかを振り返った。
 すると――

(1)少年サッカーの普及発展
 とりあえず、少年サッカースクールの発足は全国に反響を呼び、兵庫県の少年大会、少年リーグが44年(1969年)に始まった

(2)誰でも入れるサッカーチームの編成
 友の会で既に大人のチーム、各年齢のチームが生まれた

(3)国際試合のできる専用球技場の建設
 神戸市の御崎に中央球技場が完成した(1969年)

(4)芝生のサッカー場、特に少年専用の建設
 1970年に完成した

と、5つのうち4つまで課題を達成していた。5つ目の兵庫と神戸のサッカー王国再現はまだだったが……。
 もちろん、これは1968年のメキシコオリンピック銅メダル、釜本、杉山といったスター性のあるプレーヤーの出現などによるサッカーそのものの“勢い”もバックにあったけれど、その勢いをとらえて、一つひとつの布石にきちんとした正信先生の目配り気配りがあったからだ。


■市民の署名を集めて陳情

 その一つに、御崎のサッカー場建設がある。競輪場の跡地で、放置してあったのに目をつけ、神戸市側といろいろ話し合いながら、一方では市民の署名を集める運動を展開した。
 市民運動としてのスポーツ施設の建設要望という形をとり、それが署名となり、数がまとまれば一つの勢力となること――。そんな実際的なアドバイスをしたのは、やはり御影師範のOBで市会の黒崎議員だったが、それを即座に実行した正信先生は3万人以上を集めて陳情した。
 市が建設したスタジアムに、照明をつけるときも、はじめの計画を変更し、世界各国の例に倣って四角に照明塔を置く形にしたのも正信先生だった。役所がいったん立てた計画を変えるというのは、よほどのことで、このあたりにも神戸市の柔軟な頭と正信先生の人脈の強さがあった。


■KFCの創設と自前の事務所

 KFCの創設については別項に詳しいが、創立準備のための連日の会合での議論の白熱は、今は楽しい思い出だが、正信先生はその会合のあとで、一人書類づくりにまた多くの時間を割いていた。
 財団法人にする資金はなく、社団法人の申請だったが、設立許可申請から1週間で兵庫県教育委員会から認可された。たびたび足を運び、事前に何度も疑問点をただした熱意が通じたものだった。

 こうした深夜までの話し合いのため、加藤医院の応接室はクラブの事務所となり、先生の一家は、友の会、サッカースクール創立以来の最も大きな“被害者”であったかもしれない。若い頃から美人で評判だった夫人の理解がなければ先生の推進力がここまで発揮されたかどうか――。
 加藤家の応接室だけではスペースが足らない、専従の職員を置けば、なおさらだということで、県の青少年局の中に一部屋貸してもらい、第2事務所としたが、この不便さを克服するためについに正信先生は自宅の土地に事務所を建てることを考える。
 昭和51年(1976年)9月19日、新しい事務所へ移ったクラブは、借地ではあったが、少なくとも自前のクラブハウスを持つ法人格市民スポーツクラブとなった。


■高い理想とその実現に向かって

 ボクは組織の人間ではないので――ドクターであり、開業医であった正信先生は、ものごとをやり通すのに、一番効果的な方法をとるとき、「オレの立場を無視された」という人たちにぶつかって、しばしば困惑し、つぶやいていた。
 同じ夢を持っていても先生の性急さに戸惑い、協会という組織の中にいる者で、ときに反発する者もあったが、そんな声がときに上がっても、神戸フットボールクラブは、どんどんと事業の手を広げていった。
 県内の少年大会は、ジュニア・サッカー・サマー・フェスティバルとなって全国各地からチームが集まり、クラブは少年スクールの経営から、年齢に応じたチーム構成を明確にし、それぞれの層での練習日を増やすようになった。トーナメントの開催は夏にとどまらず冬にも及び、ウインター・フェスティバルとなる。一方、年長者にもプレーをという観点から西日本OBサッカー大会が始まり、西日本OB連盟の結成をみた。

 クラブとなってからの事業の一つひとつに、先生の心がこもっていた。それらの多くは現在も続いているが、たえず人には楽しい目をさせること、人に喜んでもらうことを考えてきた先生だった。
 クラブ設立10周年(1980年、昭和55年)神戸少年サッカースクール創立20周年(1985年、昭和60年)を経て、加藤先生は、北川貞義さんとともにクラブの名誉副会長となり、クラブの業務の第一線から退いたが、生涯サッカー、生涯スポーツへかける情熱はドクターとしての使命感とともにますます強まっていた。

 そんな、いつも未来を見つめる先生が急に「昔のことをまとめたくて、書いている」と言われたのが1989年の半ばだったか。ことし2月、急に京都から芦屋に引っ越した私だったが、移転が決まった1月には、まだ先生に報告せず、いずれ移ってからゆっくり話に伺うつもりだったのに、旅行先で急逝された。
 昔のことをまとめたい――というのは後輩たちのために、何かを書き残しておきたい――という気持ちだったのか、とこの頃あらためて思う。“巨人”を失った悲しみと、その巨人とともに、日本にそれまでなかったものをつくった日々の喜び、そして、その仕事を次の世代に伝える、私たちの責任もまた重い。
 正信先生と、先生を愛し励まし、一緒に進まれた長老、先輩、後輩、仲間たち、向こう岸へ渡られた人たちも、まだこちら側で頑張っている人たちも、KFCの今後をあのときのように先生を囲んで引っ張っていって欲しい。


(神戸FC20周年 記念誌 1991年1月発行)

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