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私の天皇杯(第26回)


 戦争で途絶えた日本選手権の復活第1回大会に、神戸神経大クラブでプレーしていたが、試合そのものの記憶はまことに頼りない。
 関西の予選決勝で学士クラブ(京大OB)に延長で敗れ、その学士クラブが東上を辞退したのに代わっての出場だった。

 躊躇なく身代わり代表を引き受けた裏には、なにがしかの自信もあったはずなのだが、試合は、全く東大LBのワンサイドで前半にバタバタと決まってしまった。前後半を通じて6点も取られ、こちらも2点だけは返したのだから、その8つのスコアの経路の一つぐらいの記憶はありそうなものだが、それがさっぱりない。キックオフ直後に、東大LBが2つの短いパスの後すぐシュートしたので、ずいぶん狭いグラウンドだなあと思ったこと、LBのプレーヤーはいずれも体を使うのがうまく、当たりが強かったこと、前へ出るのが鋭かったこと、そして試合中に則武と名越それにもう一人がケガをして動けなくなったこと、などが断片的に思い浮かぶだけだ。
 当時の仲間に聞いても同じようなもので、むしろ、みな共通して頭に残っているのは、東上する夜行列車で12時間デッキに立ち通しだったこと。そして東京でチームをとめて下さった乗富さんのお宅で、本当に親切にして頂いたこと。

 大陸の戦線や、国内の特攻基地から復員してきた当時の仲間たちは、サッカーができるのを喜びながらも、ある者は死ぬと決まった命を突然取り戻したことに、戸惑いを持ち、ある者は焼けた家の復興に力を割かねばならず、必ずしもみながサッカーに打ち込めた時代ではなかった。試合の記憶が薄れるのも、あるいはそんな集中力のなさが(それ以後のあるいは以前の試合は、もっとよく覚えているのに)原因しているのかもしれない。そんな時代に、我々10数人の若者を温かく迎え、ねぎらって下さった乗富家のみなさんの好意を忘れることはできない。サッカーの復興は、こうした諸先輩の献身でスタートを切ったのだと思う。


(兵庫サッカーの歩み―兵庫県サッカー協会70年史 1997年12月24日発行)

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