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神戸フットボールクラブ 20年のあゆみ


 神戸フットボールクラブは神戸市や兵庫県という、日本では極めて特異な性格を持つ地域社会から生まれ育った法人格の市民スポーツクラブ。世界的な目からは、もっとも“当たり前”で“常識的”ながら、世界で特殊なスポーツ国ニッポンでは、もっとも“非常識”で“変わった”クラブ。その20年のあゆみには、世界から見れば信じられないストーリーの繰り返しだ。


■KFCの目的と活動

 神戸フットボールクラブは1970年(昭和45年)の創立で、現在は3歳から79歳までの各年齢層の会員が1,100人、兵庫県教育委員会の監督下にある公益法人で、クラブの定款(ていかん)には、その目的と目的を達成するための事業についてこう書いている。

▽目的
 本クラブは兵庫県におけるサッカーの普及発展をはかり、青少年の健全な心身の発達に寄与するとともに、会員相互の親睦に努めることを目的とする。

▽事業
 本クラブは前条の目的を達成するため、次の事業を行なう。
(1)神戸少年サッカースクールの運営
(2)兵庫県における少年サッカーの普及
(3)会員により編成したサッカーチームの強化ならびに公式試合への参加
(4)サッカーに関する研修会、講習会、映画会等の開催
(5)サッカーに関する調査、研究、資料の収集
(6)国内外の諸地域とのサッカー技術の交流、ならびに親善試合
(7)その他、本クラブの目的を達成するために必要な事業

 この定款に基づいて、現在、
〈1〉KSS(神戸サッカースクール)を運営、本校では毎月3回、1年で平均30回開催して練習を行なっている(主として日曜、祝日)

〈2〉KSS(分校、北区の北校で55人、深江の東校で80人、それぞれ年70回から100会の練習、別にポートアイランド教室が3ヶ月を1クール(14日)80人が年3クール。六甲アイランドも1クール30人が3クールの練習をしている。

〈3〉KSSとは別に、クラブに少年部があり、そのうち
 ▽ボーイズ(小学生)A、B、C、Dがあって神戸市少年リーグの1部、2部、3部の各部に分かれて出場するのをはじめ、各地の試合出場と週3回の練習。
 ▽ジュニア(中学生の年齢)も、A、B、Cの3つのセクションに分かれて各種大会の出場と練習を行なっている。うちジュニアのトップチームのジュニア・ユースは、1990年の全国クラブジュニア・ユース選手権で3位となり、また、12月末の全日本ジュニア・ユース選手権大会でも3位に入るなど、練習を重ねている。

〈4〉青年部では高校生年齢(18歳以下)のユースが各種大会出場と練習。

〈5〉成人部では19歳以上で、A−Dまでの4チームを編成し、神戸市社会人リーグの1部から3部に所属。

〈6〉代表部 クラブ創立の1970年を記念して「KFC70」と呼ぶ、兵庫県リーグに所属している。
 企業チームと違った強化の苦労があり、また優秀選手の導入などにもハンデがあるが、現在は在籍プレーヤーのレベルアップを第一に考えている。もちろん地方自治体や企業のバックアップを得て、神戸独自のトップチームの育成も考えたが、日本協会の急速なプロ推進との兼ね合いが今後の問題となりそうだ。

〈7〉壮年部 30歳以上で公式戦を希望しないメンバーで「ベテランズ」チームを編成しているが、55歳以上が元気で各地へ遠征し、西日本OB連盟の中核ともなった。

〈8〉女子部 KFCレディーズとして昭和51年から発足した。一昨年(1989年)から始まった日本女子リーグには田崎真珠の支援を得て、田崎真珠神戸FCレディーズの名で登録し、参加してきた。中学生など低年齢層も増えてきたので、女子の本格的育成と、日本女子リーグ加盟チーム強化(トップチーム)の両面作戦に踏み出すことになる。


■クラブ運営と組織

 維持会員と、正会員の構成する総会で年間の予算、事業計画が決定され、総会で選任された役員(理事)が会務を執行する。事務を処理するための事務局は、局長以下6人、理事会及び各部の委員長の指示によって仕事をこなしている。
 職員のうち男子5人は全てコーチの有資格者で、専任することで、経験を積み指導力をつけ、神戸市協会、兵庫県協会のなかでも指導者会議の欠かせぬメンバーとなった。

 クラブ運営の財政は、KSSの授業料及び会費が主な収入で、支出は職員の給与と事業費。関係する企業からの寄付金や印刷物への広告等、イベントへのスポンサー料なども受けているが全収入の80%を会費、授業料といったクラブ自らの手で生み出しているのが企業内クラブとの大きな相違だろう。
 子弟の教育、学校教育と同じで、青少年育成という仕事は、熱心にすればするほど経費がかさんで、いわゆる儲け仕事にならないのが当たり前、そこで、教育は県や市や国の仕事となる。裕福に見える私立の教育機関でも国庫補助がなければ大変なこと。
 日本ではスポーツクラブといえば、フィジカルフィットネスや水泳などの営利事業であるが、企業内クラブであるか、あるいはまたスポーツ少年団的な限定された対象のものが多く、KFCのようなクラブは非常に珍しい例とされている。


■スタートは兵庫サッカー友の会

 昭和38年(1963年)といえば東京オリンピックに向かって日本のスポーツ界がただひたすら選手強化と、オリンピックの準備に懸命だった頃。神戸のサッカー人のなかで「なぜ兵庫県のサッカーが弱いのか、どうすれば強くなるのか」といった問題を真剣に話し合うグループがあった。御影師範(現・神戸大学教育学部)のOB大橋真平、空野章、神戸一中(現・神戸高校)OBの加藤正信らの各氏がその中心。3人は昭和5〜6年の頃の全国中等学校選手権(いまの全国高校選手権大会)で活躍した同世代。加藤さんはこのとき51歳、大橋・空野のお二人は一つ上ぐらいだったろうか。神戸一中であれ、御影師範であれ、兵庫県の予選に勝てば全国大会では優勝(候補)と決まっていた時代に育ったこの先輩たちにとっては、埼玉、静岡、広島のチームに優勝を持ってゆかれるのを見るのは、承服できかねることだったらしい。

 そのOBたちの悲憤が、単なる嘆き節に終わらずに「兵庫サッカー友の会」という任意団体の設立となる。友の会という名称は、その頃すでに「京都サッカー友の会」という組織が京都にあったので、それに倣ったのだが、設立の目的に、次の5つを掲げた。

(1)少年サッカーの普及発展
(2)誰でも入れるサッカーチームをつくる
(3)国際試合のできる専用球技場の建設
(4)芝生のサッカー場を各地に、特に少年専用のものをつくろう
(5)サッカー王国、神戸・兵庫の再現

 趣旨に賛同する会員は1,007人に達した。
 兵庫・神戸のサッカーを強くしたいという願いが、まず少年への普及へ移ったのは、いまならともかく、当時とすれば“卓見”といえた。このOBたちは、自分たちの経験――御影師範の付属小学校で、サッカーを覚え親しんだ小学生が神戸の中学に入って成長とともに上達するという意図――があった。いわば神戸、兵庫県という風土に育ったアイデアだった。
 そんな少年への傾斜が、東京オリンピック翌年の昭和40年(1965年)4月、定期的に日曜日に小中学生にサッカーを教える神戸少年サッカースクールの開設につながる。そしてまた、全国に先駆けたこのスクールは大きな反響を呼んで、生徒数はどんどん増えた。開設当初、小学生14人、中学生48人だったのが、アッという間に3桁になり、友の会のボランティア活動だけでは手に負えなくなるほどになった。


■兵庫のサッカー人が力を合わせて

 別項で強調した通り、加藤正信という“機関車”の存在が何よりの推進力だったが、この人に共鳴した御影師範のかつての好敵手たちは、小学校教育の専門家であり、若い先生から尊敬される校長や教頭でもあった。その校長さんたちに、ビルマ人のチョー・ディンとともにサッカーを教えた玉井操さんや、サッカーの博覧強記・田辺五兵衛さんといった日本協会、関西協会の長老たちが後ろ盾になり、さらには、神戸の一中、二中、三中をはじめ各中学校(旧制)でプレーし関学、関大できちんとした技術を身につけた人たち、あるいは朝日新聞の大谷四郎、毎日新聞の岩谷俊夫といったジャーナリストであり、トップチームのコーチであった面々――といった神戸特有のネットワークと、正信先生の人脈の協力が少年サッカースクールの開設から、その後の発展の早さにつながる。


■クラブ創設の頃

 玉井、田辺という2人の大御所を頭に、クラブ設立のために加藤さんと、5年先輩の北川貞義さんの大車輪の働きが続いた。北川さんは当時の神戸市長・宮崎辰雄氏とごく近い親類だったから、サッカーの国際性や、少年の健全な発達にこの競技のいい点が自然に入っていったのだろうし、誰が見ても損得づくでないこうした人たちの努力には正しい評価が与えられるものだった。

 昭和45年(1970年)12月22日、兵庫県教育委員会によって設立を許可された「社団法人神戸フットボールクラブ」の役員は次の通りとなっている。

 理事(会長)  玉井 操
 理事(副会長) 田辺 五兵衛
 理事(常務理事)北川 貞義
 理事(常務理事)加藤 正信
 理事(常務理事)大谷 四郎
 理事(常務理事)賀川 浩
 理事 空野 章
 理事 長島 隆
 理事 関屋 収
 理事 皆木 吉泰
 理事 牛尾 長男
 理事 朝比 奈隆
 理事 河本 春男

 理事に大阪交響楽団の指揮者・朝比奈隆さんの名があるのは、同氏が東京高等学校(旧制)で篠島秀雄(三菱化成社長・故人)や日向方斉(住友金属会長)らとサッカー選手であったことから――。


■少年刑務所との交歓試合

 兵庫県のサッカー振興といっても、県内だけにとどまらず、すでに広島との定期戦はスタートしていたし、友の会の頃から奈良の少年刑務所との定期戦を続けた。高等学校の大会に参加できない朝鮮高級学校とは友の会の同年齢チームが交流していた。こうした幅広いユニークな活動と、指導の実績が買われて関西運動記者クラブで制定する関西スポーツ賞が、昭和44年に加藤正信さんに贈られ、神戸少年サッカースクールは、昭和45年11月に兵庫県スポーツ賞を受けた。

 1963年(昭和38年)から1970年(昭和45年)までの7年間、つまり兵庫サッカー友の会の発足からKFC創立までは、いわばゼロからの出発、無から有への転換だった。幸い東京オリンピック(1964年)からメキシコオリンピック(1968年)への日本代表チームの活躍や、日本リーグの解説(1965年)といったトップチーム、トップリーグの刺激でサッカー界全体が上昇し、マスメディアの扱いも賑やかで、それが普及につながり、少年サッカーへの関心もまた高まった。フォローの風を受けて、日本で最初の法人格市民スポーツクラブの前途も明るく見えた。

 しかし、日本サッカーの急上昇は、代表チームの不振とともにストップする。新しいものを求めるマスメディアは、サッカーに倣って日本リーグに踏み切ったバレーボールやアイスホッケー、あるいは人気の大学ラグビーやアメフットの報道にスペースを割く。そしてプロ野球や大相撲の根強さへの見直しが始まり、さらに冬季にはスキーやスケートの他にロードレース、マラソンがテレビ視聴率を稼ぐゴールデン番組となった。
 フォローの風はピタリと止まり、無風からアゲンストに変わってゆく。そんななかでKFCは自分たちの道を自分で切り開くしかなかった。


■サマーフェスティバル開催

 昭和46年(1971年)8月第1回ジュニア・サッカー・サマー・フェスティバルを開催した。KFCに倣って各地にでき始めたクラブ単位のチーム、各地域の特色あるチームを招いて行なうサッカー大会だが、協会でもないのにトーナメントを開催するのに問題ありとする声の摩擦を避け、フェスティバル(お祭り)としたのだった。各地からやってくるチームは、神戸でしか味わえない芝生のグラウンドや、いいチームとの対戦が喜びとなった。
 第2回フェスティバルだったか、名古屋からチームを連れてきた水野(旧姓・徳弘)隆コーチは「神戸へ来ると、サッカーはちゃんと存続している。いや、年々盛んになっているという実感が湧いて、心強くなる」と語っていた。


■プレーヤーの区分は年齢別に

 外への働きかけと同様にクラブの理念の確立も大切だった。ヨーロッパ型のクラブといっても、FCバルセロナやバイエルン・ミュンヘンのように強くて人気のトップクラブと、10万近い観客を集めるスタジアムを使えるわけではない。子どもたちが成長すると中学校や高校のサッカー部へ入る者も多い。それを無理に引き止めることも、こちらへ移すこともできない。
 そんななかで、先述した通り、クラブを年齢別の各部に区分けした。

 大谷四郎氏の「スポーツをするのに社会的な身分、社会人であるとか大学生であるとかといった種別はおかしい。少年期から老年期までの人たちが楽しむスポーツだから、その種別は年齢によるべきだ」――という、明快な理念によって、クラブ員も少年部(ボーイズ、ジュニア)青年部(ユース、18歳以下)成人部(シニア、19歳以上)壮年部(ベテランズ、30歳以上)に分けた。少年部のボーイズは小学生で12歳以下と中学生(15歳以下)これを特に年齢別に書かないのは中学生までは義務教育年限で、誰もがこの年代では小学生か中学生だから。
 この各部にレディーズ(女子部)が加わる。


■日本協会も年齢別に踏み切る

 1974年、日本サッカー協会も法人格(財団法人)となり、同時に登録制度を社会人、大学、高校といった身分から年齢別に変えた。
 ▽一種 年齢制限なし
 ▽二種 19歳以下(ことしから18歳以下)
 ▽三種 16歳以下(ことしから15歳以下)
 ▽四種 13歳以下(小学生)
 ▽五種 女子

 とするのだが、KFCはすでに、それよりずっと以前にクラブ内で採用し、会員の意識革命が、日本のスポーツ全体への変革につながることを願った。それだけでなく日本協会へ年齢別登録の採用と同時に、年齢別大会の開催を再三申し入れた。
 高校選手権大会が東京に移ってから隆盛となり、国立競技場が満員となるほど盛況となったが、大谷理念からゆくと、高校生という社会的カテゴリーのチームのチャンピオンを決める大会はあっても結構だし、歴史的に伝統的にその大会が盛況であることも、また悪いとはいわない。しかし、それがすぐ18歳以下のチャンピオンとはいえない。日本サッカー協会は、二種のチャンピオンを決める大会を開催すべきである――というのだった。

 そしてその主張は、クラブ・ユース連盟、クラブのジュニア・ユース連盟の結成などがあって、第三種は1989年(平成元年)第二種は1990年(平成2年)から、学校チームとクラブ・チームの合同大会が開催されるようになった。“世界の常識は日本の非常識”というが、日本協会も世界の常識(それはKFCの常識)に合わせるようになった。KFCのクラブ理念がようやく世に受け入れられたのだった。
 こうした理屈は、マスメディアには、よほどしっかり説明しないと理解されにくい。そこに、いまの日本サッカーの難しさはあるのだが……。


■自分たちのクラブハウス

 昭和51年(1976年)9月、私たちのクラブハウスが出来上がった。加藤ドクターの宅地、48.18平方メートルを借りた鉄骨2階建ての「神戸フットボールクラブ会館」である。2階の一部が書庫となり、昭和47年に亡くなった田辺五兵衛さんの蔵書1,500点が田辺文庫として収蔵され、会員のスポーツの勉強のために貸し出されることになっている。
 神戸高校前から阪急六甲に通じるバス道の、観音寺停留所(西行き)前に建つ、この会館はクラブ員の基金によって建てられ、クラブ活動の本拠となっている。初期には加藤医院の応接間が事務所で、次いでは県の青少年本部に第二事務所を置いていた。決して充分な広さでもなく、豪華でもないが、いまの日本の市民スポーツクラブで自分たちの事務所を持つことも大変なのだ。

 1974年に西ドイツの2部リーグ、ギュッタースロウのクラブを訪れたとき、グラウンド脇の質素なクラブハウスを見たが、少なくともそれよりはKFC会館の方が大きくて新しい。もちろん、ACミランのクラブの事務所の大きさに比べると問題にならない(専務理事の部屋が、KFC事務局の2倍以上あった)けれども、この事務所でボーイズ、シニアを合わせて年間900にのぼる試合をこなし、練習計画を立て、会員に連絡を発送し、ファックスを流している。


■勉強とスポーツの両立を

 玉井操(故人)初代会長(昭和45−54年)の後を受けた現在の河本春男会長は、神戸市サッカー協会の会長であり、株式会社ユーハイムの代表取締役会長。愛知県の刈谷中学の頃からウイングプレーヤーで、東京高等師範(現・筑波大学)でもサッカー選手として活躍。卒業後、昭和7年から7年間、神戸一中の体育の先生で、サッカー部長だった。大戦後、岐阜県の教育主事を退職し、請われてドイツ菓子の名門ユーハイムの再建に力を尽くして今日の隆盛を築いた。サッカーでは、常に“一歩先んずる”ことを、私たち生徒に注意していた。会長の父君も校長先生だったから、いわば教育者の家系。日頃クラブの職員にも、子どもたちにはサッカーも勉強も両方できるように指導してほしい、そのためには練習も勉強も、心を集中することが第一だと説く。

 会長を補佐する瀬川幸一副会長は関西サッカー協会評議員、兵庫県サッカー協会副会長で株式会社ロマンチカ代表取締役社長。大戦直後の関学サッカー部黄金期のHB。いまも元気にボールを蹴り、クラブ財政の確立に懸命だ。この二人を中軸に私たちは、これまで20年の経験を生かして、KFCが新しい時代に受け入れられる方策を立て実行してゆくことになる。


■輝かしい30周年を迎えるために

 社会資本の蓄積が小さく、また個人資産の蓄積も小さい日本では、スポーツ活動といえば、学校や企業という大きな組織のなかで行なうのが長い間の例だったが、サッカーという競技の世界中でのやり方を見て、私たちは、これまでのスポーツクラブ、企業や学校のなかでのクラブと違ったものをつくり、20年間続けてきた。兵庫県教育委員会という監督者の理解とスポーツ行政に積極的な神戸市というバックがなければとてもできなかったろうし、故人となった前会長、副会長、そして推進力であった加藤正信さん、北川貞義さん、大谷四郎さんをはじめ創生記から力を尽くして下さった一人ひとりを思うとき、心から頭が下がる。20年の歴史の後半部、特に日本サッカー界が年齢別の登録に切り替えるという大事業を行ないながら、トップチームの不振で人気の凋落した停滞の10年は、クラブにとっても辛い時期だったし、会長、副会長、運営にあたる各理事、委員をはじめ、事務局のスタッフにとっても苦労の多い10年だった。

 ことしサッカー界はプロフェッショナル・リーグという新局面へ一歩踏み出した。大企業をバックにしたクラブチームが92年の開催をメドに新しい組織をつくろうとしている。これからの10年、サッカー界は大きく動き、関西もまた新空港の開設で情勢が変化するだろう。そうしたなかで、神戸フットボールクラブがどこへ、どのように進むのか――次の10年後、30周年記念を迎えるときは21世紀となる。私たちのクラブが、二つの世紀にまたがって存在し発展するために、これまでの20年にも増して、次の10年を輝かしいものにしたい。


(神戸FC20周年 記念誌 1991年1月発行)

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