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ニューイヤーズ・ドリームに思う 〜夢を追いかけ続けた兵庫サッカーの先人たち〜


■大震災から8年と播戸竜二

 1995年の、あの阪神・淡路大震災から8年――多くの体験者にとっては決して楽しいばかりの日々ではなかったが、その間にも若い芽は育つ――。当時、中学生であった播戸竜二は、琴丘高を経てプロ・サッカーの道に入り、いまやヴィッセル神戸の顔ともいうべき中堅選手となった。「自分の生まれ育った町でプレーし、たくさんの人の声援を受けるのでとても励みになる」という彼だが、スピードという武器を持つ小柄な彼が、いまのレベルに達するためには、苦労があり努力があった。ガンバ大阪、コンサドーレ札幌とチームを移り変わり、出生地のクラブで存在をアピールするためには、プロデビュー以来4年のキャリアが必要だった。

 播戸竜二のプレーの一つひとつにも、彼の努力と経験の積み重ね――いわば彼のサッカー史があるように、兵庫という地域のサッカーにも歴史がある。それは播戸選手の生まれる1979年のはるか以前から続いている。そしてまた、兵庫で生まれ、育ち、プレーをした彼の先輩たちは、古い時期から、この国のサッカーの先駆となり、リードしてきた。ときには頂点に立ち、ときには国際的感覚の新しい思想を注入し、兵庫という一つの地方から日本サッカー界に大きな影響を与えてきた。その先人たちの足跡を振り返りながら、新しい年のドリームを見ることにしよう。


■技術と戦術で先駆

 日本のサッカーの代表チームが、初めてアジアで、そのときの目標であった中華民国(現・中国)と肩を並べるようになったのは1930年(昭和5年)の第9回極東大会である。フィリピンのYMCA関係者の提唱で始まったこの東アジア地域の総合スポーツ大会で、日本のサッカーはそれまで出ると負けの状態が続いていたが、大正末期に東京蔵前の東京高等工業学校に留学していたビルマ人(現・ミャンマー)チョー・ディンの指導を受けてから技術レベルが大幅にアップし、ようやく追いついたのだった。
 このチームは、それまでの代表選考試合で勝った単独チームに1〜2の補強選手を加えるのとは別の形――関東・関西の大学の選手による合同合宿を行なった後に選考する――いわば初の選抜チームだった。戦術の基調は短いパスをつなぐ速攻で、体格に優れ、故人技量の高い、中国・フィリピン両国に対して、日本の敏捷性の運動量を生かすのが狙いだった。7−2でフィリピンに勝ち、中国と3−3で引き分け、ともに1勝1分けで首位を分けた。「日本はチームワークに優れていた」とはフィリピンの監督の言葉だが、その代表チームの考え方は、兵庫県の二つのチームの戦いの間に生まれたのだった。


■御影師範と神戸一中

 大正7年(1918年)に第1回フートボール大会が大阪の豊中で開催され、これが発展していまの全国高校選手権大会となった。はじめのうちは、関西地方の地域大会だったのが大正15年(1926年)の第9回大会から予選制を採用して全国大会の形を整えたが、御影師範はその第1回大会から第7回大会まで連続優勝していた。日本サッカーの始祖でもある東京高等師範の流れを汲む教員養成の学校である師範学校は当時の学校の制度で、中学生よりも2年の年長者がいた。学校の制度上から、師範学校は中学生と同格でスポーツ大会は同等に競ったから年齢のハンディと全寮制度で練習量の豊富な師範学校のチームは関東、関西を問わず各地のサッカー大会で中学校チームには厚い壁となっていた。

 それを破ったのが神戸一中(現・神戸高校)。校舎が外国人居留地に近く、彼らのスポーツクラブ「KR&AC」(神戸レガッタ アンド アスレチック クラブ)との交流もあって、大正2年のサッカー部創立以来急速に力をつけ、先輩格の御影師範に挑戦し、大正14年の第8回日本フットボール大会で初優勝した。決勝の対御影師範は3−0の完勝だった。このチームの成功は、前述のチョー・ディンの指導による。全国を巡回していた彼が、御影師範に1週間滞在してコーチしているとき、その休日を利用して半日間、教えを受けたという。いい素材も揃っていたが、彼が説くサイドキック、インステップキック、タックル、トライアングルパスなどのボールテクニックと戦術を自分たちのものにしたのは、体格に優れ、ロングキックと走力の上の相手に勝ちたい一心からだった。短くつないで、相手を止まらせ、敏捷性を生かしたスタートダッシュでウラをつく――このショートパス戦術が全国大会となった第9回以降も花を開くとともに、小柄な日本選手が外国チームと戦うための考え方の基盤となった。


■小学生からボール蹴り

 神戸一中はこの年と昭和5年(第12回大会)8年(第13回大会)9年(大会を冬から夏に変更したため招待大会)10年(第17回大会)13年(第20回大会)と優勝回数を伸ばし、また、昭和14年から始まった明治神宮大会でも、14年、16年、17年と優勝し続けたのは、この学校独特のOBたちとの合同練習があったが、また、ここの生徒たちの多くは、御影師範付属小学校をはじめ雲中小学校、須磨小学校など、そのころ数は少ないが小学校でサッカー遊びをしていたことも、ボールテクニックの習熟という点で全国に先んじていた。
 もちろんこれは御影師範や姫路師範などの卒業生が小学校でサッカーを教えた成果でもあった。1951年の第1回アジア大会の日本代表の16人のうち11人が兵庫県出身者であったこと、なかに神戸一中出身者が多いことも特筆されるが、その全てが、小学生のときからボールに親しんでいた。


■少年サッカースクール、クラブ育成

 時代が下がって、東京オリンピック(1964年)の翌年から戦後の第一期サッカー興隆期が始まるが、そのなかで少年サッカースクールを提唱し、続いて1970年にこの国で初めての法人格市民スポーツクラブ「神戸フットボールクラブ」を結成したのは加藤正信ドクター(故人)の推進力による。
 昭和5年の全国中等学校大会優勝メンバーの一人であるドクターは、ライバルだった御影師範OBの大橋真平、黒崎一市らとともに少年からの育成を考え、さらにそこから発展してヨーロッパ的な市民の手によるサッカークラブをつくりあげた。その会員の登録を、学生や社会人という社会的身分でなく、年齢による区分であったことに、このクラブの先見性があった。

 現在、日本ではサッカーのJリーグに倣って、多くのスポーツがプロ化へ傾斜しているが、JFA(日本サッカー協会)のようにプレーヤーの登録制度からの変更を考えているところは少ないようだ。文部科学省や各都道府県でも、スポーツクラブの育成の声が大きくなっているが、「スポーツクラブの会員登録とはどういうことか」――までは考え及んでいないようだ。神戸フットボールクラブはすでに、この点で30年前に国際的な視野で考えてスタートし、日本協会がそれを採用していたから、プロ化の際に、プロを持つクラブの下部組織への若年層の登録が支障なく行なわれたのだった。


■神戸ウイングスタジアム

 全国大会で優勝を重ね、少年期からサッカーで遊ばせることを企画し、実行した先輩たちは、市民運動を起こして3万人の署名を集め、神戸市に照明付きの球技専用スタジアムの建設を促した。市営競輪場跡に1969年に竣工したこの神戸中央競技場は、長い間、西日本で唯一、夜間試合の行なわれるサッカー場としてペレやエウゼビオやベッケンバウアーやマラドーナたち世界のプレーヤーとトップチームを迎え、釜本・ヤンマーのホームグラウンドとして親しまれた。
 2002年ワールドカップで、日本では埼玉とともに数少ない「トラック併用でない」スタジアムとして好評だった神戸ウイングスタジアムは、この神戸中央競技場の生まれ変わりである。そのウイングスタジアムが今年からヴィッセル神戸のホームグラウンドとなる。先人たちによって形は整い、器のできた兵庫のサッカー、それを播戸竜二をはじめとする、若い兵庫のサッカー人に期待したい。


(阪神・淡路大震災復興 NEW YEAR'S HYOGO DREAM SOCCER 2003 マッチデープログラム 2003年1月)

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