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兵庫サッカーとわたし 〜村田忠男会長に聞く〜


ヴィッセルのバックアップに総力を

 兵庫県サッカー協会の村田忠男会長は、1939年の協会設立時の玉井操会長から数えて第5代となる。仕事の関係で長く東京暮らしだったが、根は神戸育ちのサッカー人。
 日本協会で副会長を務め、国際派として知られた会長に、神戸とのかかわり、兵庫サッカーへの思いを聞いた。


■少年期から国際人?

賀川:神戸生まれの神戸育ちという村田会長の少年時代はどんなふうだったでしょう。サッカーは小学生の頃からですか?

村田:神戸の長田で生まれて、小3の12月にあの大戦争が始まったのです。神戸の小学校でいくつかはサッカーが盛んだったそうですが、わたしの担任の先生は野球に熱心、したがって野球はやったが、サッカーはね……。もっともサッカーのマネごとみたいなのは、よくやりました。

賀川:開戦は昭和16年(1941年)12月8日、ハワイを海軍の飛行機が攻撃し、朝早くからラジオは「米英両国と戦闘状態に入った」と告げていました。わたしは当時、神戸一中の5年生でした。小学生だった会長はどんなふうに受け止めたのでしょう。

村田:父親(多喜男さん)が大阪商船(OSK)という船会社に勤めていて、海外の事情にも明るかったから、アメリカのような巨大な国と戦って勝てるワケはない。そんな戦争は、始めるべきではない、といっていました。ボクらは子どもだから、何も分からずに日本は強いのだと思っていましたが……

賀川:神戸には船会社や貿易会社が多く、外国通が、そのころから多かった。それらの人たちは、アメリカとの戦争には否定的でした。

村田:父が言うには、神戸には和田岬に立派なガントリ・クレーンがあって歌にも歌われているが、ニューヨークへ行ったなら、そのガントリ・クレーンがいくつも並んでいる。アメリカはそんな国なのだ、と。そんな父の影響もあって外国のことには関心があった。そう、開戦の日にハワイはここでしょうと、地図で指したら先生が驚いていた。

賀川:小学生のころ、もう国際派の芽があった(笑)。やはり神戸人ですネ。で、サッカーは神戸三中で。

村田:神戸三中の2年の夏が終戦でした。他の学校では、そのころ止めていた英語の授業を、三中ではバッチリしていた。勤労奉仕にもあまり行っていなかった。
   4年生の夏には学制改革で長田高校になり、そのとき、サッカー部の試合にCFとバックが足らない、お前やらないかと誘われ玉置芳弘(関学・ダンロップ)と2人で、サッカー部の選手になった。それまでは遊びで野球をしていた。


■木村、長沼、樽谷、村田、徳弘

賀川:神戸三中は、わたしより1年上が強くて、昭和15年の全国大会で準優勝しました。長田高校も全国高校選手権に出ましたネ。

村田:そうです。高3のときに兵庫代表になったが1回戦で仙台に負けたのです。PKをとられたのが痛かった。

賀川:第28回大会、昭和25年(1950年)1月だから54年前の話。大阪の池田高校が優勝した。大阪代表の優勝はこのときが初めてでした。卒業して関西学院に入り、ここであの木村現、長沼健、樽谷明、村田忠男、徳弘隆の黄金期のFWとして活躍しましたネ。

村田:長沼さんたちはボクより一年年上で、そのころは広島弁がサッカー部の部室の主流でした。わたしと徳弘(現・水野)隆が2年のときから左サイドに入った。

賀川:GKが生駒友彦、DFには平木隆三、MFには佐藤弘明といった日本代表になる選手がいた。

村田:監督の岡村寛治さんが、今でいう全員攻撃、全員守備というような、当時としては新しい考えで、練習も工夫されたんです。

賀川:伝統的な関学の速攻が、戦後のこのチームで一つの頂点という感じだった。関学を卒業して三菱重工、ここでもサッカーを続けましたネ。

村田:昭和29年(1954年)に三菱重工に入り、当時は本社と神戸造船とそれぞれにいい選手がいた。のちに主力が東京へ移り、京大出の岡野良定さんが中心になって日本リーグの三菱重工のチームになってゆくのですが、もともとは神戸だったのです。神戸のころも強くて、田辺製薬にも勝ったこともありましたから。


■東京オリンピック、そしてAFC

賀川:日本サッカー協会の仕事をするようになったのは?

村田:1957年(昭和32年)から東京勤務になり、1960年から半年間、香港で仕事をしたりした。1963年のプレオリンピックのときに、日本協会に呼ばれて、通訳を取りまとめてくれと言われ、それから協会の仕事をするようになった。

賀川:英語もできるし、ということで、少年時代からの国際感覚がいよいよサッカーでも発揮される……

村田:英語も決して上手とは言えないのだが、仕事の関係で自然に身に付いた。やらなければしょうがないのでネ。

賀川:1964年のオリンピックでもその仕事が続いた?

村田:会社に届けを出して、3ヶ月間休みました。準備を充分したから、大丈夫だと思ったら、結構、いろいろ問題もあって、いい経験でした。

賀川:それから、次々と協会のなかで主に対外交渉の面を受け持つようになりましたネ。

村田:1965年のアジア・ユースのときです。そのあとAFC(アジア・サッカー連盟)の委員となった。日本から若い役員がきたというので、ときのAFC会長でマレーシアの首相だったラーマンに招かれ、お話する機会があった。

賀川:サッカーの縁で、その国のトップの人とも会えるのだから……

村田:当時、問題になっているシンガポールの独立のことなども話された。こういう仕事って面白いなと思いました。

賀川:“サッカー協会の外交官”村田忠男の始まりですね。2002年ワールドカップ招致の先駆者になったことはあまりにも有名ですが……。
   そうそう、一つ皆に知ってほしいのは、68年メキシコ五輪のアジア予選を1年前に日本で開催するようにAFCで決めたのは村田さんでした。銅メダル獲得の隠れた力でしょう。高砂前会長は、そういうあなたを、将来の兵庫協会の会長にと考えていたようです。

村田:高砂さんは神戸三中の4年先輩で、ボクたちの練習をよく見に来てくれた。兵庫へ帰って来いという話もありました。

賀川:その高砂さんの後を継いで会長となり、近く住居をこちらに移るとのこと――。会長としてのいまの兵庫、将来の兵庫サッカーについてのお考えを聞かせて下さい。


■まずヴィッセル、新しい考えを大胆に

村田:兵庫県協会の運営や組織は、既に立派にできています。たくさんの数の試合をこなし、各委員会がそれぞれの役割をこなしてゆくことは、素晴らしいと思います。
   しかし、これからは、こうした日常業務をこなすだけでなく、これまで、うまくゆかなかったこと、改良すべき点、新しく加えるべきことを考え、実行に移さなくてはなりません。そのなかで、まずヴィッセル神戸が大切でしょう。ヴィッセルは兵庫のチームで、このチームがJで、いつも下位争いではいけません。兵庫県協会をあげてのバックアップが必要でしょう。試合の応援などにも、いまもよくやっているようですが、もっと効果を上げるのにどうするのかです。

賀川:わたしのようにサイドから見ている人間にとっても、協会の組織的な運営は見事なものです。しかし、ときには、もっと斬新な動きがあっていいのではと……

村田:ヴィッセルとのかかわり合いも、兵庫の場合は、兵庫独特のやり方があってもいい。アシックスの鬼塚喜八郎さん(ヴィッセル後援会会長)と話をしたとき神戸市民150万云々といわれるので、そうでなくて兵庫県560万人の頂点に立つチームを考えてほしいとお願いしました。

賀川:わたしは前から、淡路をこえて四国の東部、あるいは岡山県を含めて、ヴィッセル神戸の地盤を考えてほしいと言い続けてきた。それが神戸市という行政のバックアップを受け続けてきたから、どうしても“神戸”にこだわってしまう。まず兵庫全域ですネ。播州や但馬などの地域からもいい選手も生まれるようになった時代です。

村田:兵庫のサッカーは、かつて日本のトップだったが、いまはどうでしょう。全国都道府県で中位じゃないカナ。
   協会としてはこれまでの組織はそれでよいとして、新しい問題に取り組むためにも、新しい部門をつくってもいいのじゃないかと思っています。とにもかくにも、ヴィッセルに兵庫の選手が少ないのが残念ですヨ。昔から兵庫のなかで神戸が突出していたが、尼崎、西宮、芦屋といった東側、西の姫路などもずいぶんしっかりした組織になっている。そして北の方もレベルが上がっている。
   国体でまた施設も増えるが、グラウンドはまだまだ必要になる。神戸だっていまの状態で満足すべきではない。磯上もいまの土のままでいいのかといった問題もある。

賀川:会長は、ワールドカップという、20年前には誰も理解しない大きな夢に関わり、実現に持ってきた。兵庫のサッカーにも夢を描いて、実現の一歩を踏み出して欲しいですネ。

村田:常に前へ進まないと、世間が進歩するから結局遅れる。そのためにも、たくさんの人に智恵や力を借りたいですね。


※村田忠男(むらた・ただお)プロフィール
 1932年2月16日、神戸市生まれ、関西学院大学経済学部卒業、三菱重工1954年から33年勤務。
 サッカー界では1967年から日本サッカー協会(JFA)理事、1988年〜1992年専務理事、1992年〜1994年副会長。
 アジアサッカー連盟(AFC)は1965年から35年委員を、1990年〜1994年は副会長を務める。
 国際サッカー連盟(FIFA)では1996年〜1998年ワールドカップ委員。
 2002年ワールドカップではJAWOCの競技運営局長として実際の仕事にあたった。
 現在、JFA特別顧問、国際知的障害者スポーツ連盟サッカー担当ディレクター、昨年4月から兵庫県サッカー協会会長。


(阪神・淡路大震災復興 NEW YEAR'S HYOGO DREAM SOCCER 2004 マッチデープログラム 2004年1月)

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