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東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)

長沼、岡野に見出され

 日本のサッカー史の中で代表チーム(年齢制限のないフル代表)が国際舞台でメダルを獲得したのは、1968年のメキシコ・オリンピック。
 その銅メダルの栄光には、当時の日本サッカー協会の総力をあげての強化があったのだが、チームの戦術は「人数をかけてしっかりと守り、速攻でゴールを奪う」というシンプルなものだった。これが成功したのは、第1に卓越したストライカー、釜本邦茂や杉山隆一の突破力、パス能力という武器があったこと、第2に鎌田光夫(2009年10〜12月号掲載)というスイーパーを軸にしたディフェンダー一人ひとりの粘り強い守りが(GK横山謙三を含めて)あったこと――とされている。その中で山口芳忠は左DFとしてプレーするとともに、相手チームのキープレーヤーをマークして、その仕事を抑えるのに功績があった。

 1944年9月28日、静岡県生まれの山口は名門、藤枝東高校のときから注目されていた。静岡はサッカー先進地域としてJリーグをはじめ、日本代表にも多くのすぐれた選手を送り出しているが、藤枝東高はかつて志太中学と呼ばれた旧制中学の頃からの伝統があり、36年のベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦逆転劇(3−2)を果たした日本チームでも、決勝ゴールを決めた松永行(故人、志太中→東京高等師範)が活躍した。

 その藤枝東高が63年1月の第41回全国高等学校蹴球選手権大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会)に初優勝したとき、山口はインサイドFW(攻撃的MF)でプレーし、1回戦から決勝までのノックアウトシステム4試合に全て出場、ウイングの桑原勝義(現・静岡県サッカー協会理事長)や釜本邦茂(山城高校)たちとともに大会優秀選手に選ばれている。
 62、63年の第4、5回アジアユース(当時はU−20)の代表にも選ばれた山口は、中央大学に進んだ。スピードがあり、攻、守のつなぎ役としての働きの中に守りのときの粘り強さを見出し、高いボールテクニックは攻めのためにも役立つからサイドのDF役に――と考えたのが、代表チームの長沼健監督、岡野俊一郎コーチたち。


マンマークの強さ

 19歳の山口の代表チーム入りと大胆なポジション変更は周囲を驚かせたが、やがて左サイドバックに定着し、東京オリンピックの1次リーグ、対アルゼンチン、対ガーナ、準々決勝対チェコスロバキア、5・6位決定戦1回戦(大阪トーナメント)対ユーゴスラビアの4試合に出場した。この頃は、まだ1968年のようなスイーパー・システムでなく、ダブル・ストッパーの右に片山洋、左に山口という配置だった。
 代表入りの初期は、「まったく夢中でプレーしていた。ソ連、ヨーロッパ遠征では強力なFWを相手にすることになり、平木(隆三)さんをはじめコーチ、先輩たちからいつも叱られながらやっていた」らしい。今から考えれば、そのときに大学リーグレベルより一段上のソ連のアマチュア(といっても実際はセミプロ)の選手や、東欧のオリンピック代表といった山口にとっては荷の重い相手との1対1での応対で、急速にその守備力が上がったといえる。
 攻守の切り替えの早さが強調される時代であり、個人力に劣る日本代表には組織的な守りが重要ではあったが、「守りの基礎はあくまで1対1で負けない強さが必要」と強調されていて、自分のところから守りが破られたときには周囲は厳しい目を向けるのだった。

“東京”で代表のサイドDFのレギュラーとなった山口は、66年のアジア大会(3位)67年のメキシコ・オリンピック・アジア予選突破を経て力を蓄え、68年のメキシコでの本番でその力を発揮、さらにはマンマークの強さを買われて、相手のキープレーヤー封じの大きな力となる。ピッタリと食いつき、相手と離れない粘り強さは「すっぽん」と言われるようになる。
 アマチュア相手だけでなく、プロとの対戦も同じこと。後に来日したサッカーの王様ペレ(サントスFC)のマーク役の大任を担うことにもなるのだが、メキシコ・オリンピックとペレの件は次の機会に――。


(月刊グラン2010年1月号 No.190)

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