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密着マークでベスト4と銅メダルの栄光を生み、王様ペレに食いついてその本領を引き出した“すっぽん” 山口芳忠(中)


厳しい環境下での銅メダル

 1968年10月のメキシコ・オリンピックで日本代表は1次リーグB組を1勝2分け、2位で突破して、準々決勝でフランスと対戦し3−1で完勝した。1次リーグはともかく、日本がノックアウトシステムの初戦を制してベスト4に進んだのは、当時の世界サッカー界の驚き――。
 デットマール・クラマーも選手たちを「君たちは歴史をつくった」と称賛したほどだ。

 フランスは1次リーグA組で8得点(4失点)の攻撃チーム。その得点源のマヌカンを抑えたのが山口芳忠の密着マークだった。「僕には相性のいい相手だったから、難しくなかった」とは本人の話。執拗な山口に辟易し、強い日差しに嫌気がさしたマヌカンはピッチ上にできた集音マイクの陰を見つけ、自らそこに立って、山口に「君もここへ」――と誘ったというエピソードもある。

 準決勝で対戦したハンガリー(優勝チーム)はワールドクラスと見られるプレーヤーが3人いて、個人力でも組織力でも、一ランク上――。前半が0−1、後半に不運なハンドによる2度のPKもあって、結局、0−5で敗れた。この敗戦の中でも山口は前半に大型ストライカー、ドナイのマーク役となり、ワールドクラスのCFとの応対の貴重な経験を積んだ。

 開催国メキシコとの3位決定戦も、個人技術が高い相手を、日本式の密着マークと多数防御で抑え、カウンターで釜本邦茂、杉山隆一たちの攻撃力に期待をかけるというこれまでどおりの戦略。相手の波のような再三の攻撃を山口たちはしっかり防ぎ、後半にはPKのピンチをGK横山謙三が防いで2−0で勝って、銅メダルを手にした。

 表彰式を済ませて選手村に戻るなり、全員がベッドに倒れ込んでしばらく動かなかった姿が、高度2,500mでの大会の、6試合目の過酷さを表していたが、厳しい環境の中でサッカー強国の代表を相手に勝ち抜いたイレブンの意欲には頭が下がる。高校時代に攻撃プレーヤーとして全国優勝も経験した山口芳忠が、この3位決定戦でも杉山へのロングパスを送って、杉山−釜本の2点目を生んだことも忘れてはならない。


ペレとの対戦

 メキシコ・オリンピックの前年、1967年に山口は中央大を卒業して日立製作所(現・柏レイソル)に入った。山口は日本サッカーリーグ(JSL)で活躍し、高橋英辰監督の下で70年代の日立の黄金時代をつくるのだが、プレーヤーとしての最高の栄誉は72年5月26日のペレとの対戦(サントスFC3−0日本代表)だった。

 70年のワールドカップで3度目の優勝を遂げた後、ペレはブラジル代表から引退したが、自分の生え抜きのチーム、サントスFCではプレーを続け、ゴールを重ねていた。
 今日ほどサッカーが国内に浸透していなかった37年前の日本でも、ペレを迎えることは大きな反響を呼んだが、それに応えたペレの神技ともいえる2ゴールは、満員の観衆すべてに強い感動を与えた。試合後に「ペレ、ペレ」と連呼しつつ、彼の後ろを多くの少年と若者が追ったシーンは、今なお、私の心に焼き付いている。ペレの素晴らしいプレーを生んだのは、もちろん場内の雰囲気、ペレ自身の意欲の高まりだが、彼の闘争心、ゴールへの欲求を引き出したのが山口芳忠のすっぽんのようなマークにあったといえる。

 来日の日程が決まったときから、誰もがペレのマーク役は山口――と思っていた。  山口には試合の前から、それが一つのプレッシャーにもなっていただろうが、本番では果敢に執拗にペレを防ごうとした。その全力で向かってくる“すっぽん”に、ペレも自分の“地”を見せた。
“すっぽん”自身はいう。「王様にケガをさせて、多くの観客を失望させてもいけないと考えたこともあったが、最初にぶつかったとき、ケガをさせられる相手ではないと分かった。ゴムマリのような彼の弾力に、こちらが弾き返されるという感じだった。試合途中から、彼が点を取ろうという感じが分かり、その気迫は恐ろしいほどだった。何をしてもケタ違いだった。試合が終わった後、自分の力は全て使い果たした感じだった」。選手・山口はしばらく抜け殻のようになったそうだ。


(月刊グラン2010年2月号 No.191)

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