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ペレの「生涯最高のゴール」日本中に感銘を残すプレーを引き出した 山口芳忠(下)


王様ペレを密着マーク

 東京、メキシコの両オリンピックで成果を挙げた日本代表、その左DFの山口芳忠にとって1968年の銅メダルは、アマチュアとして素晴らしい栄誉だった。多くの大会で強敵のキーマン封じの役を果たした彼には、この銅メダルとはまた別の“生涯の大役”があった。メキシコから4年の後にやってきたサントスFCと日本代表との試合での王様・ペレのマークだった。
 72年5月26日、国立競技場で行なわれたこの親善試合は、総合力に勝るサントスの3−0の勝利に終わったが、ペレが「最高のプレー」を演じたことで、多くの日本人にも、日本サッカーにも強い衝撃と深い感銘を残す歴史的なイベントとなった。

 試合を振り返ると、前半のペレはボールを受けては仲間に配る動きがほとんどだった。一度だけ、ピッチ中央をドリブルして、矢のような速さを見せただけ。それが後半に入って、次第にゴールへの意欲を強めて、39分と40分にペレは2度得点した。

 1点目は後方からのパスを受け、山口を背にして右足で浮かせ、体を反転させて胸でボールを押し出し、山口と川上信夫の間を通って、ボールの落下に合わせつつ、左足で山口の寄せを抑えて、右足ボレーをペナルティエリアすぐ外から決めた。
 2点目は、これも後方からのボールを後ろ向きの形のまま足で浮かせて、右手裏のスペースへ落とし、体の向きを変えて前へ出ようとするところから始まる。速いダッシュでボールを追うペレの内横から小城得達が防ぎにゆく。地面に落ちたリバウンドをペレが頭で突いて出て、小城の前を突っ切り、左足でボレーシュートした。ゴールエリア近くからのシュートはニアポスト側へズバリと決まった。
 ボールを浮かせて相手をかわしてシュートへ持っていくのはペレの十八番(おはこ)の一つ。58年のワールドカップ決勝でもスウェーデンの二人のDFを次々にかわしたプレーは今も語られ、ビデオでも繰り返されているが、この夜の2点目は、その17歳のときの栄光のゴールを31歳の円熟期に再現したもの。試合後に、自分の最高のゴールだと繰り返していたのは、ペレ自身の喜びの大きさを表している。

 私自身はペレのストライカーとしての素晴らしさを再認識し、特にシュートチャンスにいったん入った後、タイミングをずらせて、なお姿勢の崩れないこの人の能力に感嘆し、仲間と議論を交わしたことを覚えている。
 そうしたペレの至芸が引き出されたのは、場内の空気、試合の流れがあるが、彼に密着し、何とか食い止めようとした山口の強い気持ちにペレが反応したからだろう。
 リードされていた日本も攻め、互いの攻防にペレ自身の気持ちの高揚が、記者席からの双眼鏡でも見えていた。山口も気配を察して「小城と声を掛け合って警戒したが、ここというときの技の正確さと動きの速さにどうしようもなかった」といっている。


涙でペレと連呼した少年たち

 ペレの卓越したパフォーマンスは6万の観衆の熱狂を呼び、テレビ観戦者の多くに共鳴をもたらした。勝負だけでなく、サッカーというスポーツの面白さを日本中に伝えることになった。ある音楽プロモーション会社の社長は、「当日、会場で子供たちが『ペレ』と連呼しながら涙を流してバスの後を追うのを見て、いつものスポーツと違った感動を受けた。日本にもサッカーが盛んになるだろうということを、そのとき強く感じた」そうだ。

 ペレとの90分間は「この試合で全精力を使い果たしてしまい、選手山口はこのときで終わってしまった感じになった」とは山口本人の言葉だが、ペレがボールを受けるのか受けないのか、右へ行くのか左へ行くのか、その一つひとつの動きに神経がすり減ったらしい。
 選手生命をすり減らしたといいながら、山口芳忠のサッカーへの情熱は衰えることなく、日立(現・柏レイソル)の監督、中央大監督、そして日本代表や学生選抜の監督、コーチなどを続けることになる。今はそれらも離れているが、彼の中央大監督時代の教え子の一人、中村憲剛(川崎フロンターレ)のひたむきなプレーを見る度に、私はメキシコで戦い、ペレに挑んだDNAを見る思いがする。


(月刊グラン2010年3月号 No.192)

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