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ドルトムント大会 その2


宿舎と食事

 ドイツと試合した翌朝は、パンとハムを買ってきて朝食を宿舎で済ませ午前中を自由にしたが、さすがに疲れたようで選手はほとんどベッドに転がっていた。体の疲れもさることながら、公式試合のしょっぱなの不運は精神的にこたえたようだった。

 少し話を以前に戻すが、7日ドルトムントに到着して入った宿舎は、ある実科高校の教室を利用した臨時の宿舎だった。町の中だが、中心部からはやや西に外れて近くに大きな公園もあって、工業都市とはいっても意外に清潔で静かなところだった。戦争で壊れたビルがまだ残っていたけれども、塵っぽさもなく落ち着いていた。部屋は教室に鉄製ベッドを並べただけの殺風景なものだが明るく、生徒用の大きなシャワー室には豊富な湯も出ていた。戦後の復興に忙しいドイツとしてはそう贅沢を望めないのは当然で、むしろ学生大会らしいともいえた。だから寝泊には我慢できないものでは決してなかったのだが、そこに食堂が併設されていなかったのは不便だった。
 ウェストファーレン・ホールという体育館の付属レストランが選手食堂になっていて、そこまで毎食20分あまり歩いて通わねばならなかった。その食堂は日本の体育館などにあるちゃちな食堂とは違って、一度に数百人を収容するし、テーブル・クロースもかけてきちんと立派なレストランであり、きれいなバラ庭園を眺めながら緑蔭で茶を楽しめるテラスもあって悪くはないのだが、食事の量が少し足りないのと、何といっても日に三度通うのが面倒だった。


ウェストファーレン・ホール

 ドイツ語ではヴェストファーレンハッレと読むのだろうが、この体育館は当時欧州第一といわれてドルトムント市自慢の一つでもあった。一般にはドルトムントは「石炭と鉄の町」とか、ミュンヘンと並んで「ビールの町」といわれるが、さらに「ウェストファーレン・ホールの町」とも呼ばれるということだった。
 大会ではバスケットボールとフェンシングの会場だったが、2階造りの観客席は2万3,000人を収容するという大きなもので、フロアの周囲に観客席の前壁に向かって斜めに、板張りの移動式自転車競走用トラックをおけるようになっている。大会の際はそれを取り外して臨時スタンドにしていたが、6日間ぶっ通しの自転車競走を催したこともあるといっていた。


ルクセンブルクとザールラントに大勝

 また話をもとに戻す。そういったわけで10日の朝は食堂へも行かず休養し、午後は試合もないのでハーゲン市のドイツ対ルクセンブルクの試合を見に行った。試合をする両チームが一つのバスに乗って試合地に行くのだが、我々もそれに同乗した。ルクセンブルクは意外にまずかったし、ドイツも昨日の日本との試合で疲れたのか生彩なく退屈な試合だった。
 だがラフ・プレーで大荒れとなり、後半ルクセンブルクはPKを取られたあと審判に文句を言って一人が退場し、さらにすぐキーパーの反則でまたPKで立て続けに2点を失い、結局0−3で敗れた。我々はルクセンブルクを偵察に来たのだが、これならばと気が楽になった。

 翌11日の対ルクセンブルクはヘルネ市で行なわれ、やはり呉越同舟のバスで出かけて8−2で快勝した。この日のルクセンブルクは荒いこともしないので、ホッホラルマルクの連中がたくさん応援に来てくれた中で予想以上の差をつけることができた。

日本8(4−2、4−0)2ルクセンブルク
【日本】
 GK:玉城
 FB:平木、三村
 HB:井上、山路、高林
 FW:鈴木、小林、木村、岡野(長沼)徳弘

 日本は浅い相手のバックラインを縦パスで突き、CF木村が走って4点、両ウイングも活躍して鈴木が3点、長沼がバーの跳ね返りを彼らしく拾って1点。これで第1組の2位となった。

 続いて12日からは順位決定試合に入り、グラッドベック市で第2組の2位のザールランドと試合した。第2組はユーゴとザールの2国だけで、ザールはユーゴに1−9で負けていた。いくらユーゴが強くてもこんなに開くチームなら楽だろうと思っていたら、その通りだった。前半は、いまひとついい展開がなかった。しかし後半に入って日本はオープンへのパス展開がうまく運んで、一方的に点差を開いた。計7点のうち相変わらず木村のシュートは群を抜いて4点、続いて鈴木もゴール前のカンがよく2点、小林が1点。

日本7(1−1、6−0)1ザール
【日本】
 GK:村岡
 FB:岩田、三村(平木)
 HB:井上、山路、小田島
 FW:鈴木、長沼、木村、小林、徳弘

 試合が終わるとどこでも市長招待の晩餐会がある。昨夜はその晩餐会のやり方がまずいために大いに気分を損じ、ルクセンブルクともども早々に引き揚げたのだが、それに懲りたのでこの日は疲れたと称して晩餐会を断って帰った。


エジプトに敗れて6位

 1日の休養を置いて14日、5、6位を決める対エジプトの試合がボッフム市で行なわれた。これが大会最後の試合であるが、選手はどうも疲労気味の感じだった。実は僕も少し疲れていた。
 試合としてはドイツの後の2試合が楽勝で、さほど疲れるはずはなかった。しかし、試合ごとに違った会場へバスで1時間ほど走り、夕方6時から始まって終わるのは7時半過ぎ、それからパーティに出て食事にありつけても、公の席ではそうくつろげない。それからまたバスで帰ると、宿舎に戻るのが早くても11時は過ぎており、眠りにつくのは零時になる。
 それだけならばいいのだが、翌朝20分以上も歩いて朝食に行くのがつらい。それで、パンとハムを買ってきたこともあったが、それでは腹が満足しない。

 もう一つは、自由な余暇時間をゆったりとくつろぐ場所がなかったこと――ベッドを並べただけの場所がただ一つの休息場所で、たとえばホテルのロビーなどのように、腰をかけてゆったり休める場所が宿舎の中になかったことなどが、初めての外国という不慣れな環境に対する目に見えない気苦労と重なって、思いのほかに疲れを呼んだようだった。
 そこへ蓋を開けたらエジプトは意外に強かった。

 エジプトは第4組でスペインに敗れオランダに勝って2位となり、第3組2位のベルギーに勝って日本に当たったのだが、この間にエジプトを観ることができなかったし、何かの情報を求める手当てもしなかった。これはコーチのいたらぬところだったが、ありていにいえば、僕も外国の学生サッカーという特殊な分野について皆目予備知識はなく、情報を集める方法の見当もつかない状態だったのである。
 ただ漠然とルクセンブルクやザールラントのような楽な相手ではないだろうが、ドイツ程度とすれば勝てないわけでもないし、といった気持でいたにすぎなかった。ところがやってみれば完敗の0−3だった。そうして日本は10チーム中の6位となった。
 バネのある体、またボール技術はそれまでの3試合の相手より一段と優れ、しかも個人技だけに頼らず、日本が苦手の浮き球などを盛んにまじえて回すパス・ワークなど、ドイツよりずっと柔軟で、それまでの相手とは違ったテンポだったので戸惑った。

エジプト3(3−0、0−0)0日本
【日本】
 GK:村岡
 FB:平木、三村
 HB:井上、山路、高林(岩田)
 FW:鈴木、小林、木村、長沼、徳弘

 そこへもって、こちらの動きは鈍く、そのうえ対ドイツ以来スピードで暴れまわっていた木村が封じられて痛かった。その相手の黒人CHは読みが鋭く、バネのある体で素早い出足を持ってた。


学生も平素はクラブで

 我々の試合はそれですべてを終わって翌15日に主会場のローテ・エルデ競技場でユーゴ対スペインの決勝を見た。エキサイトした激しい試合で退場者も出た。観客にユーゴを応援する者が多かった。また「フランコ、フランコ」とスペインを野次る盛んな声を聞いてフランコ体制へのヨーロッパ人の気持ちがうかがえるようで驚いた。

ユーゴ3(0−0、3−0)0スペイン

 さて、サッカーの参加10ヶ国を比べると、ユーゴ、スペイン、エジプトの3ヶ国がトップ・グループで、そのレベルは他の7ヶ国とはっきり差があって、漠然と描いていた学生サッカーのイメージをぬきんでていた。他の国々の第2グループになると、やはり学生チームらしいというか素人臭さがうかがわれた。その中で上位を争うのがドイツ、スイスあたりで、日本もその仲間入りは可能だった。
 欧州以外の参加はなく、欧州の中でも10ヶ国程度の参加では到底世界はもちろん欧州の学生サッカーすら語るに十分な資料にならないが、学生サッカーという特殊な分野の中では、日本もチームとしてある程度の勝負はできるという確信は持てた。

 だがボール扱いを中心とする個人技という点では、大きな遅れを感じないわけにはゆかなかった。
 その点ではルクセンブルクやザールラントにすら勝るとはいえなかった。
 ユーゴ対スペインの決勝を観たときのメモにこう走り書きしている。
(1)すべては足技
(2)足技と姿勢のよさとの関係
(3)足技の伴わないフォーメーションプレーはダメ
(4)体の背面を使うこと=回転性能……

 つまり身のこなしのよいボール扱いに感心しているのであるが、そうしたいい選手の多くは、平素はクラブ・チームに属しているということが分かった。学生サッカーといえば、日本式に考えると大学のチームから選ばれてきた選手のはずだった。そのような選手も確かにいた。
 しかし学校スポーツがさほど盛んでない欧州では、むしろ学生でもスポーツの場をクラブに求めるのが多く、ただ自分が学生だというのでこの大会に参加していた。彼らの中には、クラブではプロ選手と一緒にプレーしているが、自分は金をもらっていないからアマだという選手もいた。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年6月25日号)

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