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ドルトムント大会 その3


歌合戦

 オッフェンバッハでも招待宴で日本の歌を歌ったが、この大会ではことによく歌った。たいていはバスの中だった。
 サッカーは会場がドルトムントから30キロないし50キロぐらいのいろんな都市に散らばっていて、我々もドルトムントは初めの対ドイツだけ、あとはヘルネ、グラッドベッグ、ボッフムと移り、偵察に行ったドイツ対ルクセンブルクがハーゲンだったので計4つの都市を訪れた。その往復が全て敵味方相乗りのバス旅行で、ハーゲン行きはドイツ、ルクセンブルクの中へ便乗したので、3チームの相乗りとなったが、こうしたバスの中を――片道1時間前後だが――ほとんど歌合戦で過ごしたのである。

 この大会は各国の青年が互いに付き合ってこそ意義がある。オリンピックも一応そうなってはいるが、実際には勝負の世界になっている。各種の世界選手大会はもちろんである。だが学生という元来非スポーツ的な特殊な分野では、ナンバー・ワンを血眼になって争ってみても、そう大きな価値はなかろう。といって試合が無意味ではない。日本の場合、長い戦争での断絶のあと、ヨーロッパのサッカーへの最初の手がかりを掴む機会ではあったのだが、同時に協会がこの遠征に与えた大目的の「大いに見聞を広めよ」のためには、オリンピックのような飾り気がなく自由な雰囲気のこの大会はまさに絶好の場であった。
 しかし、集まってきた20ヶ国のなかで英語といえどもそれほど通じなかった。言葉が通じないと、積極的に知り合おうとしないだけでなく、スポーツという敵味方に分かれねばならない場に生まれがちな緊張感とか、一種の気まずさといった雰囲気をほぐすのも難しくなる。そうした息苦しさを幸いに救ってくれたり、片言ででも話しかけるきっかけをつくってくれたのが歌合戦だった。大会は交歓パーティを催したりはしたが、その日試合に出ていて帰りが遅れて参加できず、サッカーはいわばバス旅行に明け暮れしていたようなものだったからバスの中は大切な時間だった。
 前号でもちょっとふれたように、ドイツ対ルクセンブルクは大荒れに荒れて、あとがどうなることかと心配したほどだったのに、バスに便乗してみると、彼らは朗らかに合唱を繰り返しながら試合でしのぎを削り合ったことなど忘れたような顔をしてドルトムントに帰着した。これなどは歌が雰囲気を救ったいい例だった。

 そんなわけで、我々も毎回大いに歌ったのだが、もともとレパートリーが少ないから、1時間近くも歌うと種切れになる。個人的にはいろいろと歌える選手がいても、みんなで歌うとなると限られてくる。荒城の月などよく歌ったが、種切れになると、当時のことだから軍かが出るのもやむを得なかった。どうせ相手は文句まで分からないのだ。
 あるパーティで炭坑節を踊ったら、非常に受けて彼らも輪に入って踊り出したこともあった。このように、歌う機会もあろうかと、出発前に一、二度練習はしたけれども、我々は歌好きのドイツ人がやる合唱とまではゆかず、斉唱がようやくのところ。それに日本の歌にはこうした場で大勢で歌うに似合ったものが少ないようだ。


演説

 行く先々で必ず歓迎宴が催され、大会中も試合地ごとに市長招宴があった。それは結構なのだが、概してその運び方がスマートでないので、せっかくの宴も興ざめることがあった。ルクセンブルクと試合したあとのヘルネ市の晩餐会がその例だった。
 歓迎宴だから歓迎の挨拶がある。それが長々とつづくのが、興ざめの第一原因だった。日本でも「簡単にご挨拶」といいながらだらだらとしゃべる例が少なくないが、それがすんなり理解できない外国語で、さらに通訳が入ろうものなら時間は倍以上になってうんざりする。
 概してドイツ人は演説が好きらしい。挨拶というより大演説となりがちだった。そうして他国の選手団が同席しているのに次第に日本が主賓となった。かつての仲間への親愛感なのだろうが、仲間といっても戦争仲間でともに負け組だ。我々だったらつい遠慮しがちなところだろうが、そんなことは意に介しないといった調子で日本が盛んに登場する。あまりに日本、日本となるので、こちらが戸惑ってしまうことさえあった。広島の平和の鐘をつくったというボッフム市にいたっては、木村、長沼の両君は原爆経験者であると大拍手でみんなに紹介して、まるで英雄を迎えたかのように市長は大満悦だった。

 ハーゲン市かヘルネ市かでルクセンブルクと同席したときには、長い話のうえにルクセンブルクには少しも言及しないので、ついに市長演説の最中に彼らは聞えよがしに仲間同士で話し合い始めた。僕は隣のルクセンブルクの選手に何をしゃべっているのかをたずねたら、市長の方をアゴでしゃくって「つまらない話だ。だから悪口を言っているのだ。フランス語でね。自分たちはドイツ語もフランス語もつかう。だがドイツ人はあの(市長の)年輩でフランス語の分かるのはごく少ないのだ」と英語で説明してくれた。


物騒な話

 ホッホラルマルクでも聞いたことだが、当時のドイツでは若い世代に比べて中年またはそれ以上の世代は一般に外国語に弱いようだった。その中年以上が戦争中のドイツをつくっていた人々だったのだろうが、その人たちによる敗戦の受け止め方はどうも我々日本人とは違っていたように思え、ときには驚くことさえあった。
 ドルトムントで、町へ散歩に出た選手が「おお、日本人か」と懐かしげに話しかけられたことから始まり、「この間の戦争は運がなくて負けたけれども、次は勝ってみせるぞ」とか「イタリアと組んだのがまずかった。次のときはドイツと日本だけでやろう」など物騒なことを言われて「おったまげた」と帰ってきたことがあった。相手はじいさんで、こんなのは極端な例ではあろうが、少なくとも“一億総ざんげ”などを言い出す者はいなかっただろう。外国との地続きのヨーロッパでは何回となく戦争を経験した歴史からも、またその論理的な考え方からも、“一億総ざんげ”なんてセンチメンタルで、まったくばかげたことに聞こえたに違いなかろうという気がした。

 ドイツはあの全土を占領された戦争が終わってまだ8年なのに、諸産業の生産量はすでに戦前を上回るほどに復興し、ドルトムント周辺のルール地方を走ってみても、鉱工業はとうてい敗戦の国とは思えない活況を感じさせた。
 だが、そんな中に思わぬ形で戦争の傷跡が残っていた。またたく間に燃えてしまうが、またすぐ家の建つ日本からは、ビルの残骸が爆撃や砲撃で壊されたままにまだ残っていようとは思わなかった。ドイツの場合、建物は石と煉瓦とコンクリートだ。同じ被害でも日本の場合とは大いに違う。それはそれは焼け跡ではなく瓦礫の山だった。いやぁ、これは大変なことだと思った。
 それをドイツ人はどうして処理してきたのだろう。性急に山や野原に捨てられるものではなし、またそうしようとはしなかったのではなかろうか。彼らは決して慌てずに考えながら着々と事を進めているように思えた。対エジプトの試合をしたボッフム市競技場の新しい土盛りのスタンドはそうした建物の瓦礫でつくられたと聞いて、合理的でドイツらしいと感心したのである。

 当時すでにドイツでもサッカーくじは盛んだった。トトカルチョの名で知られているイタリアのものと同じで、スポーツ新聞はやはりトトと大きく書いて人気を呼んでいたが、政府はそれからがっぽり税金を吸い上げ、それをアマチュア・スポーツへの助成に地方へ交付していると聞いた。まだゴールデン・プランが発足していなかったころだが、すでに立派なスポーツ施設があり、訪れた町々にはちゃんと市民のスポーツ・クラブが活動していたのはそのおかげだったのだろう。これも合理的である。
 オリンピックの東京開催が決まったとき、IOC委員の東竜太郎氏が資金集めに日本でもトトカルチョをやっては、とうっかり口を滑らしたために、アマのオリンピックをばくちのテラ銭でやるとは何事かと大反発を食らったことがあった。こうした日本の考え方とはドイツははっきり違っていた。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年7月10日号)

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