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ドイツからスウェーデンへ


卵とグリーンピース

 ドイツでの最後の日は再びホッホラルマルクで過ごした。8月16日はドルトムント大会の最終日で、まだバスケットボール、テニス、陸上競技と閉会式が残っていたが、朝食を例の選手食堂で済ませると朝のうちにホッホラルマルクに戻った。その日はちょうど日曜日だった僕の宿のボイクホルト家では主人の妹一家が訪ねてくるから昼食を共にしようという。
 妹一家は4人で、ボイクホルト家は息子が2人とも出かけたらしく夫婦だけ、それに僕が加わって計7人だ。

 料理はごく家庭料理というか、牛肉の煮込みの他にソーセージ、野菜、半熟卵にパン程度のものだが、じゃがいもとグリーンピースと半熟卵は山のように出た。ソーセージもさすがにドイツで、いろいろの種類を大皿に並べていた。ホッホラルマルクに初めて泊まった翌朝に、こんなに食えるものかとびっくりするほどソーセージをたくさん出されたことがあった。フグの刺身を並べるように、大皿に薄く切ったソーセージが数種類べったりと並んで20枚ほどもあっただろうか。せいぜい食って5、6切れだったので、ボイクホルトのおかみ(主婦)さんに、なんだ、それっぽちしか食べないのか、といわんばかりの顔をされた経験がある。
 以来、ドイツ人はさぞかし大食らいなのだろうと思っていたので、ちょうど僕の向かいに腰かけた妹夫婦の娘さんの食いっぷりをそれとなく見ていたら、そんな魂胆あって見られているとは露知らぬ娘さんが食うわ、食うわ。日本の娘さんよりもちろん骨太の大柄だが、まだ18か19の年頃だ。みるみるうちに半熟卵を4つか5つぺろりと平らげた。他の者もその調子でぱくぱく、まことに見事だった。

 そのとき、食いっぷりもさることながら、卵を扱うテクニックも慣れたものだった。卵を縦にして左手に持ち、回しながら右手のナイフで上から3分の1ほどの所をひと周り軽く叩いて傷の輪をつける。そうするとその線から上の部分がナイフで簡単に切り離せる。黄身の入った下の部分をまずスプーンですくえば2口か3口かだ。次に切り取った上の部分の白身をすくえば一口。4つも5つも平素から食っていると、こんなに簡単に素早く食える方法が自然に開発されるのだろうと密かに感心した。頭を叩き壊し、そこから殻をむしり取っていては手間がかかる。

 もう一つはグリーンピースで、こいつの扱いに日頃手こずっていたところだ。すでにボイクホルト家では何度か食膳に供されたが、フォークですくってもぽろぽろと嘲笑うようにこぼれて逃げる。これはボイクホルトの主人がどっさり自分の皿に取ると、フォークの裏で逃がすものかと押しつぶす。するとつぶれた粒が互いにひっついて板状になる。それをすくい上げると落ちないで楽に口へ運べる。はたして品のよい食べ方かどうかは知らないが合理的だ。

 初の外国旅行では、ドイツではこんな考え方をするのかとか、イギリスではこういう習慣なのかといったふうにいろいろ見聞は広められたけれども、考えてみれば日本に帰ってきてすぐさま日常で役に立つものとなると案外少ないのである。その中でこの半熟卵とグリーンピースの処理法は、いまも実用に役立てている収穫?なのである。これは民泊のおかげだろう。
 その娘さんはまことによく食べたが、一般にドイツ人がよく食べると聞いていたじゃがいもには手を出さなかった。ビール樽のように太ったボイクホルトのお主婦(かみ)さんがいうには、じゃがいもを食べると中年になって太るので、おしゃれな若い女性は食べたがらない、とのことだった。


別れの試合

 夕方にこの町のクラブのプロイセン・ホッホラルマルクと近くの町のグラウンドで試合した。我が方はドルトムントから帰ってほっと一息ついているところだが、ホッホラルマルクにしては、ちょうど夏祭の日でもあって格好の催しだったようだ。
 ユニフォームに着替えた両チームはいつもの集合所の“シュルターさんの店”から楽隊を先頭にして約300メートルばかりをグラウンドまでパレードした。といったら大げさだが、いかにも田舎祭の一こまらしく、ホッホラルマルクとしては苦心の演出なので、我が日本チームも大真面目にプカプカ、ドンドンと会場に入った。クラブ会長ドクター・ジーリングの挨拶や記念品の贈呈など一応の儀式もあったが、土盛りの見物席を町の人々が埋め、民泊した家の人や近所の子どもたちが手製の日の丸を振って声援を送ってくれて、アット・ホームな雰囲気で催された。

 我が方はまだ疲れが残っているし、これで世話になったホッホラルマルクとのお別れともなるので前後半をがらりと入れ替えて全選手が出場した。プロイセン・ホッホラルマルクはすごい馬力で走り、盛んにゴール前へ高いボールを上げて攻めてきたが、アマチュアのローカル・チームらしく技術は粗雑だったから楽な試合で勝った。疲れで動きが少し鈍って3点を失ったが、6点を取った。

日本6(4−1、2−2)3ホッホラルマルク

 夜は“シュルターさんの店”で送別パーティがあり、そのあと夏祭りのダンスパーティに招かれて選手はドイツの最後の夜を楽しんでいたが、僕はくたびれて早々に宿へ帰った。


デュッセルドルフからストックホルムへ

 前後合わせて5泊を親切に世話してくれたホッホラルマルクにさよならしたのが17日の午前10時。各家庭の主婦や子どもたちが見送って名残を惜しんでくれた。言葉が自由に通じたらもっと互いに知り合えただろうとは思うが、心のふれ合いもできて「我が息子」と呼ばれるなどみんなそれぞれにまたとない経験を積んだ。
 あまり上等でない古びた車体だったが、バスは100キロを超えるスピードでアウトバーンを突っ走りデュッセルドルフに着いたら数人の商社の人が迎えてくれた。飛行機は午後に出るというので、それまでの数時間、商社の人に昼食をご馳走になったり、買い物につきあってもらう。

 このときに限らず、フランクフルト到着以来約20日の間には、商社や留学中の方たちにたびたび世話になった。宿舎に差し入れをしてもらったり、町を案内してもらったり、試合ごとに応援に来てもらったりとまことにありがたかった。当時の海外旅行といえば、いわばおっかなびっくりのお上りさんのようなもので、20人が昼飯一つ食うにしてもなかなか世話が焼ける。そこへ土地に慣れた同胞が現れてくれると、貧乏旅行ならずとも、“地獄で仏”というと大げさだが、それに似た気持ちでマネジャー役は安心する。
 今のように日本人が世界中をうろうろしているとなんだまたきたかということにもなろうが、戦後まだ10年足らずの当時は商社の人もまだ駐在して1年足らずの人が多く、留学の人にしても敗戦の刻印をまだ背負ったような気持ちの孤独な暮らしだったろう。訪れる同胞もまだぽつりぽつりだ。つまり、まだ日本は遠かった。当時は、外国で同胞の顔を見るのは、たとえすれ違いでも、互いに何となく懐かしく心強かったのである。20人となると、おそらく世話するにも厄介だったと思うが、我々はついそうした人の気持ちに甘えがちだった。

 飛行機はコペンハーゲンで乗り換えがあった。ストックホルム行きを待つために乗り換えロビーに出たら、一人の日本紳士がやはり便を待っていた。日本へ帰るところの大阪の実業家だった。同じブレザー姿の20人がぞろぞろと現れるとすぐ目につく。
「何の旅ですか」と聞くので、かくかくしかじか、いまからスウェーデンへ行くところだと説明したら、あれこれ自分の経験などを話され、「ではみなさんの成功を祈ってビールで乾杯をしましょう」と一同はビールをおごってもらって別れた。
 こんな経験はいまでは難しいかもしれない。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年7月25日号)

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