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ラウル・ゴンサレス(1)17歳4ヶ月の若さで超名門レアル・マドリードの1軍デビュー


 心に残るストライカーの連載の12人目はラウル・ゴンサレス(レアル・マドリード)。「白い巨人」と称されるレアル・マドリードは、チャンピオンズカップの時代から、今のチャンピオンズリーグに至る欧州王座(1956−2009年)54回の歴史の中で、9回の優勝を誇る。その名門クラブで96年以来レギュラーであり続けるラウルは、フロレンティーノ・ペレス会長の「銀河」ちーむのときにも、ジネディーヌ・ジダンやルイス・フィーゴあるいはデビッド・ベッカムたちと華やかな攻撃を演じて、チャンピオンズリーグに3度優勝し、トヨタカップでも2度世界一に輝いている。

 今年の夏、ペレス会長の返り咲きとともに、クリスチアーノ・ロナウドをマンチェスター・ユナイテッドから、カカーをミランから移籍させるという、世界を驚かせる「新銀河」づくりが始まったレアルの中で、32歳のラウルがどのような働きをするのか――。
 一時の不調を脱して昨シーズン、得点力を復活させたベテランに注目したいところだが、それとともに「とびきり強いわけでもなく、頑健な体でもなく、長身で空中戦が強いというのでもないのに」レアル・マドリードでも、スペイン代表でも、通算最多ゴールを記録している。このストライカーの、ゴールシーンを追い、彼自身のゴールを奪う技術、戦術を眺めてみたい。


 ラウル・ゴンサレス・ブランコは1977年6月27日生まれだから、日本の中田英寿(77年1月22日生まれ)より5ヶ月ばかり若く、中村俊輔(78年6月24日)より1歳年長となる。生まれはスペインの首都マドリード、エンジニアの家庭で、両親ともにアトレティコ・マドリードのファンだったところから、このクラブの少年チームへ入ったが、クラブは財政難からジュニアチームを解散。そのためレアル・マドリードの下部組織へ移った。14歳以下のチームのとき、ラウル少年は65ゴールを記録したというから、得点力はすでにこの頃からあったらしい。
 クラブの監督であったホルヘ・バルダーノ(現在はクラブのゼネラルマネジャー)は94年10月、ラウルを1軍に引き上げ、対サラゴサ戦に登場させた。17歳と4ヶ月、この伝統のクラブでは最年少記録となる。
 デビュー戦は上々とはいえなかったが、次の第2戦は対アトレティコのホームゲームで、彼は見事にゴールを決めてサポーターを喜ばせた。
 この94−95シーズンにレアルはリーガエスパニョーラで26回目の優勝、ラウルはあのエミリオ・ブトラゲーニョ(86年W杯で大活躍)に代わってFWに入り、9得点(28試合)を挙げた。


 ついでながら、バルダーノ監督は86年W杯にアルゼンチン代表として出場し、マラドーナとともに優勝の栄冠を手にした選手で、長い距離を疾走して重要なゴールを決めたプレーで知られている。レアルでもプレーして3度リーグ優勝を経験している。監督就任早々に、若い素材を見出したのは慧眼というべきだが、マラドーナというスーパースターを助けて労の多いプレーを演じたゴールゲッターだった監督は、ラウルにもよく似た資質を見たのかもしれない。
 それはともかく、この年から彼はレアル・マドリードの攻撃陣に欠かせぬメンバーとなった。

 日本のファンに彼の名が広く知られるのは98年W杯フランス大会、この大会の予選では好成績だったスペインをメディアは「有望」と書きたて、日本のテレビや活字は「無敵艦隊」と持ち上げていた。
 残念がら、スペインは1次リーグD組で対ナイジェリア(2−3)対パラグアイ(0−0)対ブルガリア(6−1)と、1勝1分け1敗で勝点4の3位となって敗退した。
 初戦のナイジェリア戦で名GKとして知られていたアンドニ・スピサレッタにミスが出たのが響いた。

 この試合、私はスタジアムでなく、マルセイユの知人宅でのテレビ観戦――スペインの不運な負けよりも、ラウルの見事なゴールが印象に残っている。
 前半1−1のあと、後半2分に生まれたゴールだが、フェルナンド・イエロの右後方からのロビングボール(浮かせたボール)のパスを落下点に走り込んで、左インサイドでピシャリと決めた。その飛び出しのタイミングの素晴らしさと、落下点へ走り込み、ためらうことなく左足(利き足)でダイレクトにボールをとらえたところ、相当な距離を相当なスピード走って、なお、ボールを蹴るときに崩れない姿勢は、まさに「飛び出すストライカー」の魅力がいっぱいだった。
 ラウルは、対ブルガリア戦で1ゴールを決め、初のW杯は2ゴールだった。その半年後、東京でのトヨタカップでレアル・マドリードの勝利に素晴らしいゴールで貢献することになる。


(週刊サッカーマガジン 2009年8月25日号)

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