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ラウル・ゴンサレス(3)再び欧州を制した99−2000。対マンチェスター・U戦で見事な2発


 1994年にレアル・マドリードのレギュラーとなったラウル・ゴンサレスは、昨シーズン(2008−09)までの15年間で、リーグ(1部)通算520試合に出場して223ゴールを記録し、カップ戦や欧州チャンピオンズリーグなどを合わせると、701試合で313ゴールを重ねた。これは、「伝説の巨人」アルフレッド・ディステファノ(1950−60年代に欧州クラブ・チャンピオンに5度輝いた)の307得点を超えるクラブ史上の最多得点。
 スペイン代表としては96年10月の対チェコ戦にデビューして以来、06年まで102試合(65勝23分け14敗)に出場して44ゴールを挙げ、これも代表史上最多得点者の栄誉を握っている。
 その間にレアル・マドリードはリーグ優勝6回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝3回、トヨタカップ優勝2回をクラブの栄光の歴史に新しいページを加えた。彼自身、この間に98−99年、2000−01年の2度のシーズンにリーグ得点王となっている。

 ラウルにとって初めてのリーグ得点王となった記念すべき98−99年は、クラブのサポーターや首脳にとっては辛いシーズンだった。
 この年、21勝5分け7敗でレアルはリーグ2位、前年(4位)に続いて2年間、首位を宿敵バルサ(FCバルセロナ)に明け渡したのだった。しかも、そのバルサとのリーグでの対戦もホームで2−2、アウェーで0−3の完敗だった。

 レアル・マドリードとFCバルセロナのライバルとしての長い戦いは、すでに世界中に知られている。
 イベリア半島の大部分を占めるスペインの国土はそれぞれの地方の異なった気候風土から、異なった地方色が生まれ、早くから市民生活に根を下ろしたサッカーはそうした地方色と地域意識を代表し、その土地の人たちにサポートされ、地域の対抗意識がチームを強くし、クラブを発展させてきた。

 なかでも首都マドリードのレアル・マドリードと、経済的に豊かなカタルーニャの代表格といえるFCバルセロナは、それぞれの地域の歴史も加わって互いに強烈なライバル心を抱いてきた。レアルがリーグ戦31回、カップ戦17回、バルサがリーグ戦19回、カップ戦25回に優勝して群を抜いているだけでなく、欧州チャンピオンズリーグでも、レアルが9回、バルサが3回優勝の実績を持つ。レアルにはディステファノ時代の第一黄金時代に欧州チャンピオンズカップ5連覇の偉業があるが、そのときのレアルに挑戦したバルサの監督エレニオ・エレラが後にイタリアのインテルに移って考え出したのが「カテナチオ」であり、1970年代にアヤックスから移ったオランダ人、ヨハン・クライフがバルサの「サルバトーレ」(救世主)となり、さらに後にチーム監督となって、バルサだけでなくスペイン・サッカーの「現代化」を進める力ともなった。
 自ら「世界一のクラブ」と自負するレアル・マドリードの首脳陣にとって第11代会長サンティアゴ・ベルナベウが1943年から35年間の会長時代に築いた実績――豊富な資金によって、国の内外から優秀な選手を集め、またしっかりした下部組織から自らの手で優れたプレーヤーを育成する方針を続けてきた。こうしてカスティーリャ(マドリード)とカタルーニャ(バルセロナ)のビッグクラブは激しい争いを演じつつ、サッカー発展に貢献してきたといえる。

 99−2000年はレアルにとってリーグ優勝は果たせなかったが(バルサは2位だった)チャンピオンズリーグで再び優勝し、欧州の栄誉を手にした喜びのシーズンだった。  ラウルはこの年も前年に続いてリーグでもゴールを量産(17得点)チャンピオンズリーグでは10得点(15試合)して得点王となった。
 1次リーグE組で4勝1分け1敗で首位に立ったレアルは、2次リーグC組でバイエルン・ミュンヘンと首位争いを演じて2位ながら準々決勝に進出した。ここで顔を合わせたのがマンチェスター・ユナイテッドだった。

 ホームで0−0のあと、オールド・トラフォードに乗り込んでの第2戦を3−2でモノにした。この試合でラウルは50分に、右サイドに開いてボールを受け、中央へドリブルして相手を前にして左へかわしつつ、左足でビューティフル・シュートをゴール左上隅へ決めてチームの2点目。その2分後に左サイドを突破したフェルナンド・レドンドからの短いクロスをゴール正面に走り込んで3点目を決めた。レドンドがドリブルし始めたときには後方にいた彼が、ゴール前の空白地帯へ走り込んだところにラウルの本領があった。
 準決勝でバイエルン・ミュンヘンを倒した。決勝の相手は、バルサを準決勝で破ったやはりスペインのバレンシアだった。


(週刊サッカーマガジン 2009年9月8日号)

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