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ラウル・ゴンサレス(4)23歳でCL2度目の優勝。70mの単身ドリブル突破


 ラウル・ゴンサレスにとっての2度目のチャンピオンズリーグ決勝は2000年5月24日、パリ郊外サンドニのスタッド・ド・フランスで、スペインのバレンシアを相手に行なわれた。
 バレンシアは、レアル・マドリードやバルサ(FCバルセロナ)に比べると創立は1919年と比較的新しいが、このときまでリーグ優勝4回の記録を持つ。私には78年ワールドカップの英雄マリオ・ケンペス(アルゼンチン)がいたチームという懐かしい記憶もある。99−2000年シーズンは、首位デポルティボ・ラコルーニャ、2位バルサに次いで3位(18勝10分け14敗)で、5位レアル・マドリード(16勝14分け8敗)よりも勝点で2ポイント勝り、シーズン中の対戦も1勝1分けと優位に立っていた。
 チャンピオンズリーグの準々決勝でイタリアのラツィオをホームで3−1、アウェーで0−1。準決勝でバルサをホームで4−1で撃破、アウェーでも1−2でしのいで勝ち上がり、その勢いから決勝もバレンシア優勢との声が多かった。

 一つには、この頃のレアル・マドリードはロレンソ・サンス会長と意見の合わぬ監督の交代が繰り返されたこと――。この試合ではビセンテ・デルボスケだったが、彼は前の年の11月に去ったジョン・トシャックの“後釜”。そのトシャックは98年の2月にフース・ヒディンクに代わった。ヒディンクは98年の9月に就任して7ヶ月で辞め、その前にはホセ・アントニオ・カマーチョが(98年7月から)2ヶ月で去っている。監督がこうも短期で交代を繰り返すチームの評判がいいわけはないのだろうが、いざとなればレアル・マドリードは大舞台に強いというべきか。この日、黒のユニフォームのレアルがオレンジのバレンシアに3−0で完勝してしまった。

 開始すぐにバレンシアのCKがあってチームの勢いを感じさせ、ガイスカ・メンディエタの長距離シュートが飛び、パコ・ファリノスがチャンスを決め損なって頭を抱える場面もあり、バレンシアのサポーターも望みを持っていたハズだが、39分にレアルの先制ゴールが生まれた。きっかけはロベルト・カルロスのFKで、ほぼ中央、距離は30m。彼の強いシュートがバレンシア側に当たって右へ飛んだ。そこからレアルはペナルティエリア内でつないでミチェル・サルガドがクロスを上げる。これをフェルナンド・モリエンテスがヘディングで決めた。  2点目は67分、左タッチラインからのロベルト・カルロスのロングスローを相手が跳ね返し、ボールはペナルティエリア外に落下、中央やや右寄りの位置に走り上がったスティーブ・マクマナマンがボレーで見事なシュートを叩きこんだ。

 0−2となって挽回を図るバレンシアはどんどん攻める。ラウルやニコラ・アネルカにとっては、まさに垂涎の展開となり、75分に自陣の25mライン近くで前を向いてボールを受けたラウルが長いドリブルののち、GKサンティアゴ・カニサレスをかわしてゴールに送り込んだ。この場面は、私はもちろん画像で見ただけだが、相手のほとんどがレアルのペナルティエリア近くまで進出してきたときに、その裏へ走ってボールを受けたのだから、ドリブルの距離は70mはあったハズ。彼はこのときの様子を「気がついたら、誰もいなかった。とにかく、早く相手ゴールまで行こうと思って無心でドリブルし、最後にゴールキーパーを右へかわして右足でゴールへ送り込んだ」と言っている。
 この欧州チャンピオンズリーグでラウルは合計10得点し、マリオ・ジャルデウ(FCポルト)とともに大会の得点王となり、レアル・マドリードはこの8回目の優勝で次のチャンピオンズリーグの出場権を得た。

 23歳で、チャンピオンズリーグの2度目の優勝を経験したラウルには、この年6月スペイン代表の欧州選手権が待っていた。
 オランダとベルギーの2ヶ国の共同開催の大会に出場するための予選第6グループで、スペインは7勝1敗、得点42、失点5で首位突破。同じ組の相手が格下チームだったこともあって、まずは圧倒的なスコア、ラウル自身も11ゴールを代表得点記録に追加している。

 そのEURO2000の本番では、スペインはノルウェー、ユーゴスラビア、スロベニアとともにCグループで1次リーグを戦い、初戦の対ノルウェーは0−1で落としたが、第2戦のスロベニアに2−1、第3戦のユーゴスラビアは大シーソーゲームとなって4−3で勝ち、このグループの首位で準々決勝へ進んだ。ラウルはアルフォンソ・ペレス、またはイスマエル・ウルサイスと2トップを組み、対スロベニアでは先制ゴールを決めている。
 準々決勝で98年W杯優勝のフランスと顔を合わせ1−2で敗れた。終了間際にPKを外すというラウルにしては珍しい失敗もあって、またまたナショナルチームでのラウルの成功は遠いままとなったが、彼のクラブではビッグな新計画が進んでいた。


(週刊サッカーマガジン 2009年9月15日号)

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