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神戸サッカー物語 vol.2


再び三木谷教授のこと

 先月号のこのページで、新しくヴィッセル神戸の経営に関わるクリムゾングループの三木谷浩史社長やその父君・神戸大学の三木谷良一名誉教授とサッカーとの関わりを紹介した際に、教授の出身を旧制神戸一中(現・神戸高校)と記したが、これは旧制・神戸市立一中(現・葺合高校)の誤りだった。
 三木谷教授ご自身から教えてもらって、まことに汗顔の至り。原因はあるのだが、全て確かめ方が悪かった筆者の責任に違いない。改めてお詫びとともに訂正させて頂きたい。葺合高校は、故・加藤正信ドクターを中心に私たちが1965年にスタートさせた神戸少年サッカースクールが会場としてグラウンドを使わせてもらった学校であることも付記しなければならないが……。

 さて、新しい体制の下で2004年Jのスタートを切ったヴィッセル神戸は○2−1市原、△0−0新潟、さらにヤマザキナビスコカップでも○1−0柏と3月は、3戦して2勝1分け無敗と、まずは上々の船出だった。
 チームの花となるイルハンが故障で戦列を離れるのは残念だが、堅い守備を基調としてチームの骨格はしっかりしていて、今後もいい試合が見られそうだ。サッカー好きの間でヴィッセルへの期待が、かつてなく強まりそれにつれて監督・ハシェックへの評価が高くなるのもまた当然だろう。


どのポジションもこなした選手ハシェック

 イワン・ハシェックは1963年9月6日生まれの40歳。選手時代はチェコ代表のキャプテンを務めたこともある。日本のファンには1994年、2年目のJリーグ1stステージで広島が優勝したときの彼の印象が強いだろう。平山相太の国見高校の先輩である大型ストライカー高木琢也とともに2トップを組み、自らも13ゴールを決めた彼によってサンフレッチェは、Jリーグ11年の歴史のなかに唯一の西日本チームの優勝を残したのだった。
 私が選手・ハシェックを初めて見たのは1990年イタリア・ワールドカップのとき。彼は4番をつけ、チェコ代表DFの右サイドにいた。最も強く印象に残ったのは準々決勝の対西ドイツ(0−1で負け)。PKをマテウスに決められての惜敗だったが、この試合で彼は2度の素晴らしいゴールカバーでピンチを救った。一つはブッフバルト(現・浦和監督)のヘディング、一つはクリンスマンのシュートだった。ハシェックの読みと、ポジショニングにスタンドはどよめいたものだ。
 こういうゴールカバーの守りから、広島でみせた前線に出てのシュートや攻撃の組み立てまで、あらゆるポジションをこなせる選手であった。その経験と、冷静に試合を読む力は監督として成功するうえに重要な基盤となるハズ。


85年前チェコ軍人チームのショートパス

 ハシェックを生んだチェコは20世紀のはじめから中央でサッカーの盛んな地域だった。ここのサッカーが日本で伝わったのは神戸がおそらく最初である。大正8年(1919年)第1次世界大戦でロシアの捕虜となったチェコの軍人たちがシベリア経由でアメリカを経て帰国するとき、神戸で試合をした。相手となった神戸一中は、初めてみるショートパス戦術に驚いたものだ。体格も技術も違い0−9の大敗となったが、これが刺激となって大正末期の神戸一中のショートパス戦法が確立する。
 そしてまた対戦した高山忠雄、小畠政俊たちは東大に進み竹腰重丸(たけのこし・しげまる)たちと昭和初めの東大の黄金期をつくり、そのショートパス戦法が、日本代表の極東大会優勝(1930年)ベルリン・オリンピックの対スウェーデン逆転勝利(1936年)につながっていった。チェコと神戸のサッカーの不思議な縁が今度も幸いなものであることを――。


(ヴィッセル神戸オフィシャルマガジン「ViKING」2004年5月号)

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