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サッカー人生はや半世紀 〜74年W杯から全大会を取材・賀川浩さん〜 By武智 幸徳


「サッカーは世界に通じる窓」と賀川浩さん(73)はいう。「自分がシュートする、自分がパスをする、その『自分』の在りようの違いをフランスのワールドカップ(W杯)でも見てほしい」。そう語る賀川さんは、1974年西ドイツ大会から、全てのW杯を取材した日本の現役最年長記者である。


ボール追った青春

「朝日の山田午郎さん、毎日の斎藤才三さん……。素晴らしい大先輩はいっぱいおられた。私なんかが草分けと言われたら笑われる」と賀川さんは照れる。「長いこといろいろな選手を見てきたのは確かだけど」

「日本サッカーの語り部」といわれる賀川さんの眼力は、神戸という土地で養われた。特攻隊員だった戦争を挟みサッカーに明け暮れた青春。1936年ベルリン五輪でスウェーデンを3−2で破る、「ベルリンの奇跡」を起こした早大の点取り屋、川本泰三さん。「クライフ(オランダ)のようだった」(賀川さん)という慶大の二宮洋一さん。神戸が生んだそんな日本代表の名手が身近な先輩にいた。
 物も道具も教則本も満足にない時代。賀川さんたちサッカーの技術を自分の頭と体を使ってかみ砕き、血肉にしていく術を身に付けていった。

「例えば川本さんは釜本邦茂(現・参院議員)に『消えないかん』と教えた。名古屋に来たリネカー(イングランド)はまさにこれが上手。一度マークに付くDFの視界の外に出て、それからゴール前に現れればDFより先のボールに触れ、シュートできる。そういう工夫を低いレベルなりによくやった」
 だから技術を見る目は厳しい。特に気になるのがキックだという。平野(名古屋)は日本代表で最も強いボールを蹴る選手だが、「もっと飛距離が欲しい。それができれば短い距離の制球も自然に付く。上げるキック、叩くキックの2種類を使い分けるストイコビッチ(ユーゴスラビア)という、ええ手本が目の前におるんやから」。

 ストライカーの城(横浜M)は? 「DFの間に入り込むうまさは身に付いてきた。入り込んだ時に中山(磐田)のように姿勢が崩れないのもいい。ただ足のシュートのタイミングはまだまだやなぁ」
「点を取る事で言えば、どのこで、誰が決める、という詰めが不足してる。日本が戦うアルゼンチンのクラウディ・ロペス―バティストゥータの点の取り方は、68年のメキシコ五輪で杉山隆一―釜本がやったのと同じ。最後にシュートを打つ場所は空けておいて、ここ、というときに飛び込んで合わせる。そんな形が日本にない」


若手の成長に期待

 その一方でプレーの緩急を既に身に付けている中田(平塚)、キックに味がある小野(浦和)、「今、長いボールを蹴れる子は貴重」という稲本(G大阪)ら、20歳前後の選手に向ける期待は大きい。
「ドイツのベッケンバウアーは66年が初出場で3度目の74年に優勝した。日本も中田や小野が3度目のW杯となる2006年が楽しみ。そのためには徹底した技術の反復練習が若いうちに必要やろな」


7度目に意欲衰えず

 3年前、兵庫県芦屋市の仕事場で大地震に襲われた。長い記者生活で収集したコレクション、資料、書籍などを展示するミュージアムを作る気でいたが、その3分の2を地震で失った。大きな落胆を味わったが、計画は別の形でよみがえった。今年1月、ホームページを立ち上げ、これまで賀川さんが書いてきた作品を閲覧できるようにした。取材への意欲も少しも衰えない。
「去年の夏、1.2あった視力が今年落ちてな。もう、1.0しかない言うたら看護婦に叱られた」。夏、フランスへ取材に出かける。7度目のW杯取材である。


(日本経済新聞 夕刊 1998年5月29日)

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