賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >神戸のサッカー 【日本語版】

神戸のサッカー 【日本語版】

※英語版はこちら

居留地からのスポーツ

 800年も前から、宋や明との交易の拠点であった神戸は、明治の開国とともに、横浜と並ぶ大貿易港となり、外国人の居留地が生まれ、ここを通してヨーロッパをはじめ海外の生活習慣や文化が市民に伝わり、根付いた。
 居留地というのは港の近くに設けられた外国人の占有地域で、いまの神戸市役所から海岸にかけての一帯。明治3年(1870年)には、この地域内にスポーツクラブ「KR&AC」(神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ)が創設され、次第にテニスコートやサッカー場などの施設が整う。
 そのKR&ACと横浜のYC&AC(横浜カントリー・アンド・アスレチッククラブ)とのインターポート(港の対抗戦)のサッカー試合が始まったのが明治21年(1888年)、いまも続く最も古い定期戦だが、その前年の明治20年(1887年)3月に神戸で発行されていた「神戸港新聞」に“神戸居留地で蹴鞠(けまり)会が開かれた”という記事があり、サッカーがこの頃すでに多くの人の目にふれる場所で行なわれるようになっている。というところから神戸人に「サッカー発祥の地」説が生まれる。
「発祥の地」にふさわしく大正から昭和の大戦前にかけての神戸一帯は日本サッカーの先進地域だった。


サッカー先進地として

 大正7年(1918年)に始まった日本フットボール大会(全国高校選手権大会の前身)は第1回から第22回(昭和15年、1940年)までの間、神戸のチームが16回優勝、7回準優勝している。地域予選制度を取り入れて全国大会となった第9回以降でも、御影師範が4回、神戸一中が4回、準優勝は神戸一中1回、神戸三中1回と合計14回の大会のうち神戸勢は10回決勝進出したことになる。
 優勝回数だけでなく、神戸一中(現・神戸高校)が2歳年長の師範学校に勝つために技術を高め、短いパスをつなぎ、サイドへの展開を重視しつつ、相手の守備ラインの裏へ、スルーパスを流し込んだ。「ショートパス戦術」は昭和5年(1930年)以来、日本代表が、個人の力にまさる外国チームと戦うための基本的な考えになった。
 こうした中から多くのトッププレーヤーが生まれた。昭和5年の極東大会1位、昭和11年のベルリン五輪逆転劇には中心的役割を果たす選手を送り込んだ。昭和26年(1951年)の第1回アジア大会では16選手のうち11人が神戸出身者という異常現象もあった。
 師範の付属小学校でボールになじみ、旧制中学で正しい指導に出会うというコースの成果だが、大戦のブランクと学制改革によるこのシステムの崩壊で、しばらく低迷期となる。


法人格市民クラブ、専用スタジアム

 東京オリンピックの直後の昭和40年(1965年)に加藤正信ドクターを中心に、旧神戸一中、旧姓御影師範のOBたちが、少年サッカースクールを始めたのは、こうしたかつての少年育成コースの再興を願ってのことだった。少年スクールは、スポーツ少年団、少年のクラブへと移行しつつ、同じ頃にスタートした日本リーグとともに日本サッカーの進展の大きな力となった。
 加藤ドクターらのボランティア・グループは1970年に、それまでの「兵庫サッカー友の会」を改組して「社団法人・神戸フットボールクラブ(略称・神戸FC)」をつくる。日本サッカー協会がまだ財団法人になっていなかったとき、法人格の市民スポーツクラブを設立したのは恒久的に少年指導を続け年齢を問わずプレーを楽しめるクラブを運営していくためには、プロフェッショナルの指導者、クラブ運営者の必要性を考えたからである。
 法人化とともに神戸FCが推進したのは、「年齢別のプレーヤー登録」だった。スポーツを行なうのに高校生、大学生、社会人といった社会的身分で分けてチームをつくるのではなく、プレーヤーの区分は年齢別であるべきという世界常識は、当時の日本では非常識だったが、やがて日本協会もこの登録に踏み切ることになる。
 こうした背景を持つ神戸がJリーグのクラブを持ち、2002年のワールドカップの会場に立候補したのは、自然な流れだったし、日韓の全会場の中でも異例のトラックなしの専用球技場という考えも、かつて3万人の署名によって「御崎サッカー場」を建設した市民にとっては、その跡地のスタジアムとして当然のことと受け止めている。
 その署名運動に関わったボランティア・グループの次世代は、いま、市内の全小学校の芝生化に取り組み、「アスリート・タウン・神戸市」を目指している。


(2001年3月10日 YC&AC対KR&AC インターポートマッチ・試合プログラム「Legend Of Football 〜世紀を越えて蘇る日本サッカーのルーツ〜」)

↑ このページの先頭に戻る