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ドイツの大歓迎


ぎっしり詰まったスケジュール

 羽田を出て5日目の7月28日午後3時半、一行を乗せたSAS機はフランクフルト・アム・マインのライン・マイン空港に着陸した。
 予定を1日ずらした連絡がうまく着いただろうか、もしオッフェンバッハ・キッカーズの連中が迎えに来てくれていなかったら、フランクフルトでホテルを探さねばならない。などと心細い話を機中で竹腰さんから聞かされていたが、何のことはない、キッカーズのモーラー副会長やオスワルト監督らが花束を持って迎えてくれ、SAS機を背景にして新聞社のカメラマンがぱちぱちと写真も撮った。
 ローマの税関では焼き海苔(のり)が引っ掛かっていささか往生したが、ここはまだ荷物を開きもしないうちにどんどん運び去られて、入国手続きを終えて出たらもう一足先に荷物はバスに積み込まれていた。
 税官吏はにこにこ顔で「ゴールキーパーのムラオカはどこだ」とか「いい試合をしろよ。見に行くぜ」などと呑気なことを言う。バスが走り出したら日の丸の旗を立てた乗用車が先導し、沿道の人々は盛んに手を振り、中には日の丸の小旗を振る人もいた。

 30分足らずでフランクフルトの東南に隣接するオッフェンバッハ市のホテル・カイザーホーフに着いたら、ここでも日の丸の旗が2本玄関の屋根に立ててあって、子ども、老人らが20〜30人集まって我々の到着を待っていた。
 オッフェンバッハは工業都市といっても、人口10万足らずの小ざっぱりと静かな町並みで、ホテルも“皇帝館”というほどにはいかめしくもないが、「おお、よく来てくれた」といわんばかりの厚意を何となく感じさせる。

 さて、各自荷物を部屋に運び込んで、この日はゆっくりしたいところだったが、そうはゆかなかった。フランクフルト大学で日本語を勉強しているミュラー君と日本生まれで18歳まで東京で育って戦後ドイツに帰ったザール君の2人の通訳が紹介されたあと、配られたオッフェンバッハ滞在中の予定表を見たら見学、見物、練習、歓迎宴だけで朝から晩までぎっしり埋まり、自由時間がほとんど見当たらない。
 それでもまだ確かな見当がつかないままにさほどのこともあるまいと思っていたら、早速これから新聞社訪問に出かけるという。空港に着いてからまだ2時間も経っていない。もう一度予定表を見ると、28日のところに「午後4時半に、ビンツ発行社の視察と歓迎とお八つ」と確かにそういう予定になっている。
 予定表には、ドイツ語と英語のほかに日本語のものまで用意されそれは「日本のお客様に対する次第書一覧」と頭にあって、なかには少し不似合いな言葉遣いや誤字もあったが、並々ならぬ歓迎の厚意をうかがえるものだった。

 しかし、そのスケジュールが27日の到着で始まっているところからすると、到着が1日ずれた以前に作ったスケジュールのままであり、いくら予定はそう決めてあったにしても、到着した途端から強引に既定のスケジュール表に合わせてゆくあたり、これがドイツ人の几帳面さというのか、ドイツ人は「客を親切にもてなす」ことが好きな国民だとどこかで読んだが、そのドイツ人が少しでも多くドイツを見せてあげたいと考えてくれたからだろうか、それとも精力的な彼らには、そんなスケジュールはへいちゃらだったのだろうか、僕はいまでも解釈に迷っている。
 幸いにして、選手たちは元気だったし、好奇心に溢れていたからすぐ出かけた。ビンツ発行社とは、オッフェンバッハ・ポストという夕刊紙を出している新聞社のことで、我々のことが全員の顔写真入りで前日の新聞に大きく紹介されていた。それで、6月に東京で行なわれた対オッフェンバッハ戦に活躍した村岡君が人気の的であることも、沿道で日の丸を振ってくれたこともうなずけた。
 新聞社の見学を終わると、ビンツ社長の歓迎パーティーがあって早くも歌の交歓に発展して、ホテルに帰ったのは10時近く、それから本当の晩飯を食って風呂に入り、寝たのが零時半ごろだった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年4月号)

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