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スウェーデン 〜その1 大敗の巻〜


0−9の大敗

 8月17日ストックホルムに着いたのが夜の9時だった。すぐ市内のホテルに落ち着けると思っていたのに、花火大会の催しがあってホテルは観光客で満員で、その夜は約30キロ走ってスーリュダテリエと呼ぶ小さな町で泊まった。晩飯を食って寝たのは午前零時を過ぎていた。
 そうして翌朝ストックホルムのホテルへ移ったのだが、ホッホラルマルク出発以来のせわしい丸一日のあとで、すぐ試合にはまだ少し無理な調子だと思っていたのに、夕方6時から試合が行なわれた。
 スウェーデンのスケジュールはイドロット・ブラデット紙のリーベルグ記者に任せてあった。彼は2年前にヘルシングボーリュ・クラブを手始めに、そのあともスウェーデン・チームの来日のたびにいつもプロモーター的働きをしていたスポーツ記者で、我々の同国訪問も彼を介して行なわれたようだった。

 会場はオリンピック・スタジアムだった。1912年の大会がここで開催されたとき、日本は陸上の三島弥彦、金栗四三の両選手を送ってオリンピックに初参加したというところだけに、我々にも思い出となったのだが、相手が強すぎて0−9の無残な大敗を喫してしまった。
 相手というのはユールゴルデンとアイコーの混成チームだった。いずれもA級リーグ所属のクラブで、ユールゴルデンは同年秋に来日して全日本も1−5と1−9で二度完敗した。頭文字のAIKでアイコーと呼ばれるアルマナ・イドロット・クラブも同等の力である。

 スウェーデンはアマチュアだというが、フル・タイムのプロではないにしても、試合の報酬はもらっているし、我々から見ればプロに近い。記録から見ると、英国のプロにも対等で、ヨーロッパのどの国へ行ってもA級リーグに仲間入りできる実力である。とうてい我が学生選抜の組しうる相手ではなかった。だが9点も開いたのはまた別の原因があったのである。
 リーベルグ記者は、大佐のうえに観衆も少なくて大いに嘆き、朝日新聞東京本社の運動部犬橋正路記者に寄せた手紙には「学生チームは闘志に欠け、日本で見たときのスピードも見られませんでした。それに日本選手のプレーはおとなしすぎました」と書いた。それも同じ原因によるものであった。


パスでのキープが裏目に

 相手が強くてもそれなりの作戦を立てればそんなに差を開かれることはなかったのだが、9点も開いた大きな原因は僕の指示にあった。
 僕はまず勝てるとは思わないが攻撃を仕掛けろ、といった。そうして、ボールを奪ったら、味方の1人または2人がすぐ近くに寄ってやり、そこへ短いパスをつないで相手の素早い潰しをかわせ、その援助プレーがうまくゆけばボールはこちらに確保されることになるので、それを糸口にして次の展開へ移れ、と指示したのである。言葉を換えれば、自陣から中盤にかけては、無理に前へ急がずパスをつないでキープしろ、という趣旨のことを指示したのだが、実はその指示がまったく裏目に出てしまった。

 ヨーロッパに来て以来、自陣ペナルティエリアの外縁あたりからハーフウェイ・ラインにかかる地域での攻撃展開の組み立て方が我々より断然すぐれていることに気付いた。特にボールを奪った直後の差が我がチームを苦しめた。
 日本チームでは、フルバックやハーフがその地域でボールを奪っても「持つな」といわれて育った関係から早くパスを――しかももっぱら前方へのパスを考えた。だが相手はボールを奪われると全員がさっと我が方のマークに移るのが早いだけでなく、ボールを持っている者に対する“詰め”もすこぶる早い。そこで我が方はパスのコースもふさがれ、弱いキープ力では個人で持ちこたえることもできず、せっかく奪ったのにたちまち自滅を招く結果となった。

 ところが彼らは、我が方が潰しを怠るとボールを持った者が(たとえバックでも)うまいドリブルでぐんぐんせり上がる。そこでこちらのFWもその前進を押さえにかかったのだけれども、そのとき彼らは誰かが必ずすっとボールをキープする者の近く(主として横に)5、6メートルのところへ素早く寄ってくる。短いパスでボールはそこへ渡され、そこから次の展開が楽々と始まる。
 それではじめにボールをキープした者が行き詰ったときには直接助けることにもなるが、とにかく彼を使うことによって、我が方の守りの目標が一瞬にしてはぐらかされるのである。それがおおいに堪えた。そこから彼はドリブルしたり、あるいはさらにバックラインの間で横パスをつないで、我が方の守備方向を反対サイドへゆさぶってきた。
 そのような展開のうまさでも一挙に望むことはできないにしても、とにかく近くに寄った者につなげば、ボールを持つ者の行き詰まりを一応打開してキープを続けることができる。個人的なキープ力の弱い我が方としては、こうした連係プレーででもボールをキープすることが攻撃への第一段階だから、それだけでもやりたいと考えた。

 そこで味方ボールになったら、すぐ誰か近くに寄って助けてやれ、と指示した。選手は指示どおりに寄ってボールをもらうところまではできた。しかしもらい方(トラップ)がまずく、逆の広い地域へワンタッチでトラップできないために、ボールがきた方向へ止めてしまう。そのためにまたもとの狭い地域へ追い戻されて、逆に横取りされるケースが多くなった。さあ攻めに移ろうというときであり、一挙に2、3人が取り残されたりして、そのあと大きなピンチにつながった。そうしてますます押される原因となった。
 やはり個人のボールの受け方、持ち方がまずいとパスも生きないし、何もできないわけだが、そのために走りまくって大きく展開する攻撃の回数も逆に少なくなって敗れてしまったのである。前半の0−3で作戦を変えるべきだったのだろうが、無理にでもその要領を会得してくれないかと続けさせたので後半はますます追い込まれた。負けたのは実力の差としても、9点差は僕の責任だった。しかし、その原因の失敗となったボールの受け方がいまなおほとんど進歩していないのを見せられるのは情けない。


サンドビッケンでも軽くあしらわれる

 1日おいた20日(木)にはサンドビッケンという田舎の町で試合した。ストックホルムから北へ約150キロといっていたが、人口わずかに2万だから小さい地図では見つからない。とにかくバスで3時間も走った。有名な製鋼会社があってその従業員が6,800人と書いてあったから、町全体がその製鋼会社のような感じだ。試合をした陸上競技もできるサッカー場の観客収容力が2万。町の全住民をすっぽり収容できるわけだ。
 それにテニス・コートが8面、芝生のサッカー・トレーニング・グラウンドと立派な体育館が隣接していた。体育館ではハンドボール、テニス、バドミントン、卓球、レスリング、ボーリング、射撃……等ができるほか、各種トレーニング器具が揃い、館内の宿泊室で我々も泊まった。またバンディ、陸上、サッカー兼用スタジアムをもう一つと水泳場をつくる予定だといっていた。
 すべて製鋼会社の所有だが、これが人口2万の町のスポーツ施設だから全くびっくりした。そのサンドビッケン・クラブと夕方から試合した。小さな町のチームだけれども、やたらと強かった。メモにこう書いている。

「A級リーグの上位だというから当然だろうが、軽くあしらわれた感じだ。スウェーデン人は一般に大柄だが、特に長身揃いで、彼らが全力を尽くせばものすごいサッカーをやりそうだ。
 中盤では比較的甘くてボールを持たしてくれるのだが、3FBの壁は手も足も出ない感じだ。ほとんど突っ立っているようなのだが、我がFWは突っかかって行ってはむざむざ討ち死にした。ただ前へ前へと急ぐ癖がどうしても治らない。CHのミスキックに木村の足がただ一度活きて1点を取ったが完敗だ。サンドビッケンのFWがペナルティエリアの入口でかけるダッシュとシュートは迫力に溢れている。攻守のこんな力に小さな我々が対するには技と頭脳を磨く以外にない」

 この試合は1−5。これで同国での試合を終わった。勝負を争える相手ではなかったが、教訓は貴重だった。


written by 大谷四郎 (サッカーマガジン 1975年7月25日号)

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