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ラウル・ゴンサレス(10)日韓W杯の不運な敗戦のあと、ブラジルのロナウドを迎えた“銀河系”とともにトヨタカップを目指す


 2002年5月15日、レバークーゼン(ドイツ)を破ってレアル・マドリードはUEFAチャンピオンズリーグの9回目の王座に就き、ラウル・ゴンサレスも25歳で3度目の欧州王座を味わった。

 この半月後、ラウルはスペイン代表として2002年ワールドカップKOREA JAPAN、あの日韓共同開催の大会に出場、グループステージを首位で突破し、ノックアウトステージの1回戦でアイルランドと1−1、PK戦で倒してベスト8に進んだ。ラウルはここまで4試合で3得点し(10月27日号で紹介)攻撃の中心として活躍したが、足の故障で準々決勝は休み、フランシスコ・デペドロとフェルナンド・モリエンテスがFWに起用された。
 1回戦でイタリアを激戦の末に倒して8強に進出した韓国の粘り強い攻守に、スペインは苦戦しながらも決定的なチャンスをつくったが、レフェリーの判定でゴールが認められないなど0−0。PK戦の末、3−5で敗退した。

 最も不思議だったのは、延長に入ってホアキンが右サイドからドリブルでゴールラインまで持ち込み、オンラインのボールをファーポスト側にフワリとクロスを送ってモリエンテスがヘディングで決めたゴール。この場面を私は大阪・長居競技場のプレスルームのテレビで見た。アシスタントレフェリーが旗を上げ、エジプト人のガンドゥール主審が笛を吹いた。
 ビデオでは蹴られたボールは確かにオンラインで、外には出ていないように見えたが、モリエンテスのヘディングに韓国の選手が競りに行こうとしなかったのは、レフェリーの笛のせいに見えた。
 カルラス・プジョルは「自分たちはすべてにおいて、この試合では勝っていたはず。私たちの少なくとも2つのゴールを、レフェリーが取り消す論理的な理由は全くなかった」と語っている。
 スペインはベスト8にとどまり、ラウルはまたまた代表での国際タイトルを取れなかった。

 そのラウルは、今度はレアル・マドリード創立100周年記念での世界一クラブを目指す、フロレンティーノ・ペレス会長の“銀河系”大強化に出会うことになる。
 ルイス・フィーゴにジネディーヌ・ジダンを加え(2002年チャンピオンズリーグ決勝の2点目は彼のボレーシュート)、さらに日韓ワールドカップ優勝の立役者、ブラジルのロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ、通称「ロナウド」を迎え入れたのだった。

 1976年9月22日生まれ、ラウルより1歳年長の彼は、98年フランス・ワールドカップの頃は、すでに世界のスターだった。
 98年大会決勝でのミステリアスな不調で、ブラジルがフランスに敗れ、世界最高のスターの座をジダンに明け渡したロナウドは、その持って生まれた爆発的なダッシュ力ゆえに起こるヒザの故障によって入退院を繰り返した。02年大会の直前にようやく回復し、再びブラジルとともに世界の頂点に立った。

 新しいシーズンのメンバーは、GKに生え抜きのイケル・カシジャス、DFミチェル・サルガド、フェルナンド・イエロ、イバン・エルゲラ、左はすでにチームの看板の一人となっているロベルト・カルロス、守備的MFには疲れを知らぬクロード・マケレレとアルゼンチンのエステバン・カンビアッソを配し、彼らの支援を受ける攻撃陣はフィーゴ、ジダン、ラウル、そしてロナウド。
 通常はフィーゴが右、ジダンが中央、ラウルが左に位置し、ロナウドの1トップの形だが、機に応じて動き、ポジションは自由に変化する。ジダンのキープとピポットターンに続く巧みなパス。フィーゴのドリブル突破、走り出せば一気にマーカーを置き去りにするロナウド、そうした特色あるスターFWとともに、自らもトップから相手ボールを追い、プレスをかけ、一転して守備陣の裏へ飛び出してゴールに絡むラウルは、偉大な仲間の個性を引き出しつつ、スーパースター群の一員としてゴールの実績を積むのだが……。

 ビセンテ・デルボスケ監督の選ぶ配置は3−5−2であったり、4−2−3−1であったりした。ロナウドの調子が悪い時にはラウルのスペイン代表のパートナー、モリエンテスがいた。ラウルとともに、カンテラ育ちの左利きMF、グティやイングランドのスティーブ・マクマナマンをはじめ、多くの各国代表がベンチにいるという贅沢さはまさに“銀河系”のチームだった。
 チームの目標は、もちろん02−03シーズンのスペインリーグ制覇、国王カップのタイトル、そしてチャンピオンズリーグの連覇だったが、12月4日の第23回トヨタカップ(横浜)も、100周年記念に欠かせぬ「世界」の王座だった。


(週刊サッカーマガジン 2009年11月24日号)

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