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ラウル・ゴンサレス(12)銀河系とともに「欧州制覇」は挫折。でもリーガではタイトル奪回、26歳の充実期を迎える


 11月15日、大阪のウエスティンホテルで、「釜本サッカー教室1000回達成パーティ」が催され、多くのサッカー仲間やスポンサー、各クラブの関係者が集まって、楽しい集いを持った。
 30年にわたる釜本邦茂の教室で、多くの少年たちがサッカーの楽しみを覚えたことだろう。将来も続けるようだから、今も蹴る形の美しい彼が60歳を超えてなお現場に立ち、若い人たちに接することで、日本のサッカーに続々と美しいシューター、強いストライカーが生まれてきてほしい――。彼の人生経験とグループの成長を示す、賑やかで、それでいて気配りの行き届いた会を眺めながら思った。


 さて、表題のラウル・ゴンサレス。レアル・マドリードで1994年以来、2009年の今年まで、17歳から32歳の今日まで現役プレーヤーで活躍する彼のプレーを追うこの連載の先号で、02年12月の第23回トヨタカップで、彼が先制ゴールに絡む見事なフェイクを演じたところを紹介した。
 02−03シーズンの大目標の一つ、トヨタカップを制して、世界ナンバーワンクラブの証としたレアルは、リーグ優勝とチャンピオンズリーグの連続優勝を目指すことになる。
 12月のトヨタカップのときには、すでにチャンピオンズリーグの1次リーグをC組1位で通過。11月から2月にかけての2次リーグでもC組に入っていた。

 東京から帰ったレアル・マドリードは12月11日にこの欧州の戦いに戻り、ロコモティフ・モスクワと引き分け(2−2)ている。2月に入ってレアルは対ドルトムントのホーム(2−1)アウェー(1−1)を戦い、3月2日に強敵ACミランとの第2戦を3−1でモノにした(第1戦、11月26日のアウェー戦は0−1で落としている)。3月中旬の対ロコモチフのアウェーを1−0で制して、C組の2位、ミランとともに準々決勝へ進んだ。
 ラウルは1次リーグで2得点、2次リーグで対ロコモチフ2得点、対ドルトムント1得点、対ミラン2得点と、合計7ゴールを奪っている。このミラン第2戦は、レアルの“銀河系”本領発揮というべき会心の試合だった。ラウルはチャンピオンズリーグでの個人通算40、41点目を記録した。

 準々決勝の相手はマンチェスター・ユナイテッドだった。03年4月8日、レアルはサンティアゴ・ベルナベウでの第1戦を3−1で勝ちとる。フィーゴが見事なカーブ・シュートで先制し、28分にラウルが2−0とした。スターたちの調子が上がり、それぞれのフィーリングが合ったときには、ユナイテッドであっても抗し難い。あまりのレアルの優勢ぶりが影響したのか、レフェリーは明らかにロナウドへのファウルを見逃した(PKになるはず)と、当時のリポートは伝えている。後半にもラウルは1ゴールして3−0、ユナイテッドはルート・ファンニステルローイが1点を返したのみだった。

 4月22日、オールドトラフォードは、ユナイテッドの猛反撃で沸いた。
 ラウルが虫垂炎の手術のために欠場したが、ロナウドが得点の口火を切る。ファンニステルローイが同点、50分にロナウド、しかし、ユナイテッドはイバン・エルゲラのオウンゴールで2−2とする。ロナウドの3点目(ハットトリック)で再びリードしたレアルだが、アレックス・ファーガソンが先発から外していたデビッド・ベッカムを登場させると、彼の右足は2ゴールを生む。4−3となったが、ユナイテッドはなお必要な2ゴールを加えることはできなかった。

 準決勝は5月、相手はユベントス。レアルはホームで2−1で勝った。ラウルはまだ欠場し、ロナウドとロベルト・カルロスが1ゴールずつを決めたが、そのロナウドがヒザを痛めて50分でピッチを離れた。
 5月14日のトリノでの第2戦はラウルがようやく復帰した。ロナウドはベンチ、クロード・マケレレを欠くという不安なスタートだった。ユベントスはダビド・トレゼゲが先制、アレッサンドロ・デルピエロが2点目を奪い、前半で2−0、73分にパベル・ネドビェドが3点目を決めた。レアルにも反撃のチャンスはあった。53分に投入されたロナウドに対するファウルでPKがあったが、フィーゴが失敗した。反則の主、パオロ・モンテロにはレッドカードが出なかった。ジネディーヌ・ジダンが1ゴールを返したのは残り1分、1−3で敗れ、連覇の望みは潰えた。

 欧州は残念だったが、このシーズンにレアルはリーグ優勝、26歳のラウルは31試合に出場して16ゴールを決め、ロナウド(29試合、23得点)フィーゴ(33試合、10得点)ジダン(32試合、9得点)とともに攻撃の柱としての務めを果たした。


(週刊サッカーマガジン 2009年12月8日号)

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