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メキシコ五輪銅メダルチームを支えた右フルバック 片山洋(上)


東アジア選手権での不振

 今年6月のワールドカップ南アフリカ大会に日本代表は高い目標を掲げているが、2月の東アジア選手権で中国(0−0)と引き分け、香港(3−0)に勝ち、韓国(1−3)に敗れて、1勝1分け1敗の3位に終わって、サポーターやメディアの強い批判にさらされている。なかには監督更迭を唱えるものもあり、その是非はともかく、ホームの大会でサポーターの期待を裏切ったのだから、当分、代表チームは強い調子で非難されても致し方なし――というところだろう。
 選手や監督たちは原因を解明し、次の試合でその成果を表しつつ、本番に向かって進んでほしいと願っている。

 休養期明けで、選手たちのコンディションに問題があり、「めいっぱい走り」「神経を研ぎ澄まして」のチームプレーができる状態ではなかったとの見方もある。相手以上に走り、ボールと人とを動かすというやり方の強調は、選手一人ひとりの能力アップへの努力をおろそかにしがちで、それは長い日本サッカーの歴史をながめれば明らか。2月シリーズのようにチーム全体の調子が落ちているときに、個人の力で回復し立て直せるプレーヤーも少ないから、今度のようにアジア勢相手であっても1対1の弱さが表れて、余計に惨憺たる情景になったといえる。
 前大会のジーコ監督も、今の岡田武史監督も1対1のボールの奪い合いで負けないことを強調しているが、この後、誰がどのように伸びるのだろうか……。

 世界的な大会のその予選を突破した後、本番前にステップアップした最も顕著な例としては、1968年のメキシコ・オリンピック前の釜本邦茂(同オリンピック得点王)がいる。この年、2ヶ月の西ドイツ留学と個人指導で、このストライカーは1ランク上がって、チーム全体の得点への自信が生まれるとともに、ディフェンダー一人ひとりの1対1でのボールの奪い合いでの粘りとなって、高地メキシコでの苦しい6試合を勝ち抜き銅メダルとなった。


1対1に粘り強かったDF

『このくに と サッカー』というこの連載のなかで、2009年10月号から鎌田光夫、山口芳忠と続けて1968年のメキシコ・オリンピックのディフェンダー(DF)を紹介しているのは、チームプレー強調の伝統のなかで、1対1の守りに責任を果たそうとしてきた当時のDFに目を向けたいと考えたからでもある。
 今回の片山洋は鎌田、山口とともにJFA(日本サッカー協会)の第4回の名誉の殿堂入りをした右DF――。

 1968年の日本代表の守備陣はGK横山謙三、中央部は小城得達、森孝慈、あるいは宮本征勝、右が片山、左が山口、ラインの後方に鎌田がスイーパーという形だった。
 彼らは1次リーグでナイジェリア(3−1)、ブラジル(1−1)、スペイン(0−0)、準々決勝でフランス(3−1)、準決勝でハンガリー(0−5)、3位決定戦でメキシコ(2−0)と戦い、世界のサッカー国のアマチュア代表を相手に3位となったが、ハンガリー戦は別として、これらの強チームの強力FWを相手に3試合を1失点、2試合を無失点でしのいだのも栄光をつかむ大きな力だった。

 片山洋は1940年5月28日生まれだから、68年大会は28歳の充実期だった。6人のディフェンダーのうち、小城と森が広島出身、鎌田、宮本が茨城・日立、山口が静岡だが、片山は生粋の江戸っ子。東京第一師範(現・東京学芸大)付属世田谷小学校、同中学校と進み、高校は慶応義塾高校、大学は慶応だった。

 第一師範学校は、戦前の青山師範の戦後のある時期の名で、日本サッカーでは草分けの一つであった名門の師範学校(小学校の先生を育成する学校)。日本のサッカーの始祖でもある東京高等師範(現・筑波大)の流れをくむ青山師範附属小学校は戦前、それも古い時期からボールを蹴っていて、兵庫県の御影師範(現・神戸大)付属小学校とともに戦前、戦中に多くの代表選手を生み出したところでもある。
 そうした環境で早くからボールになじんだ洋少年はボール扱いが上手で、後に代表に入ったときも、南米的なボールテクニックを持つフルバックという目で見られたが、その素地はこの頃からあったらしい。高校生となって、サッカーにさらに身が入り、チームの中心となって、ひたすらレベルアップに励んだ。その頃、日本サッカーは苦悩の時期ではあったが……。


(月刊グラン2010年4月号 No.193)

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