賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ソ連、欧州ツアーで腕を磨き、ひたむきに東京五輪を目指した日本代表DF 片山洋(中)

ソ連、欧州ツアーで腕を磨き、ひたむきに東京五輪を目指した日本代表DF 片山洋(中)


本田圭佑CSKAと日ソ交流

 ロシアのCSKA(チェスカ)モスクワでの本田圭佑の話題が注目されている。グランパス時代の彼のキックに目を見張ったことのある私には、このところの進歩と評価の高まりはとても嬉しい。
 オランダから移った先がロシアであったことに、古いサッカー人のなかにCSKA(中央陸軍クラブ)というチーム名とともに、60年代の日ソスポーツ交流時代を思い出している方もいるはず。
 60年代に東京、メキシコ両オリンピックを目指して日本サッカーが代表強化に懸命であった頃、日ソスポーツ交流計画の一環として、サッカー日本代表の長期強化ツアーをソ連(当時)側が受け入れてくれたのは、ありがたいことだった。チェスカはディナモ(電力労組のクラブ)トルペド(自動車労組)スパルタク(生産者合同組合)などとともにモスクワに本拠を置く、トップリーグの強チームの一つで、来日したこともある。そのチェスカで本田が腕を上げ、ワールドカップでの代表の新しい力と期待されるのを見ると、サッカーの不思議な縁を見る思いがする。


ブルドーザーのようなタックル

 さて、表題の片山洋。1968年のメキシコ・オリンピック銅メダルチームのDFもまた、ソ連遠征で成長した一人。
 前号で東京育ちの片山が東京第一師範(現・東京学芸大)付属世田谷小学校、同中学校で早い時期からボールに親しみ、慶応高校を経て同大学に進んだことを紹介した。
 170センチと体は大きくないが、足が速く、ボールテクニックが高く、気性が強い片山は、59年秋の関東大学リーグに1年生のときから出場した。同学年には浦和西高出身の田村公一(第1回アジアユース大会日本代表)のような高校チャンピオンもいたが、そうした仲間たちからも片山は“サッカーの虫”とその熱心さと努力に一目置かれていた。ボールの奪い合いに強く、スライディングタックルでボールもろとも相手の体を吹き飛ばすすさまじさで、ブルドーザーと言われたという。

“東京”を4年後に控えたスポーツ界は、60年夏のローマ・オリンピックに大選手団を派遣したが、サッカーはアジア予選で韓国に敗れたため不参加で、ローマではなく欧州ツアーへ19人の選手を送った。竹腰重丸団長、高橋英辰監督が選んだプレーヤーのなかに、20歳の片山も入っていた。
 彼らは西ドイツ(当時)で初めてデットマール・クラマーの指導を受け、ヨーロッパを転戦して8月下旬から9月末までの40日間に10試合したが、そのうち4試合がソ連チームが相手。モスクワ、タシケント、アルアマタ、ミンスクなど広いソ連領内をめぐるタフな旅行とタフなソ連チームとの試合は、代表の一人ひとりにとって大きな経験と刺激になった。
 翌年、61年8月のムルデカ大会(マレーシア独立記念大会)の対マラヤ戦で代表Aマッチデビューした片山は、この大会に続く欧州ツアーにも参加、チームは徐々に若返りの気配を見せていた。


63年欧州ツアーからレギュラーに

 その頃、慶応大の仲間たちは片山を「大学1〜2年生にかけて、ものすごくレベルアップした」と見ていたが、その進歩を証明したのが1963年の代表欧州ツアー。西ドイツとの第4戦でベテラン平木隆三が負傷し、片山がその代わりを務めるようになってからだった。8月のムルデカ大会6試合すべてに出場し、東京オリンピック前年のリハーサルともいうべき10月の東京国際スポーツ大会にも、レギュラー右DFとして戦った。
 60年のクラマーの招待から4年目、日本代表はこの国際スポーツ大会後、西ドイツ・アマチュア選抜と京都で戦い、4−2で完勝したが、代表のDF陣も片山洋、宮本征勝、鈴木良三、鎌田光夫といった新しい顔ぶれになっていた。
 64年夏、日本代表はソ連での4試合を含む欧州ツアーと合宿の後、最終戦の対グラスホッパー(スイス)を4−0で勝ち、スイス紙の絶賛を浴びた。4年前に1−4で敗れた相手との勝利に、自らの進化に自信を深め、東京オリンピックに臨むことになる。7月21日から9月8日までの50日間のツアー、全12試合に片山はフル出場した。


(月刊グラン2010年5月号 No.194)

↑ このページの先頭に戻る