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メキシコ五輪で1対1の粘り強さで各国チャンスメーカーを封じた右DF 片山洋(下)


厚く、堅く、粘り強く守る

 1964年の東京オリンピックで片山洋と日本代表は1次リーグD組第1戦で、アルゼンチンに勝った。次のガーナに敗れて1勝1敗(この組のもう一つのチーム、イタリアは大会を棄権)で3チーム中2位となり、準々決勝に進んでチェコスロバキアと対戦し、ここで敗退したが、サッカー王国として知られたアルゼンチンに逆転勝ち(3−2)したことでサッカー人気は一気に高まった。

“東京”から次のメキシコ・オリンピックまでの4年間は日本サッカーの興隆期。新しい全国リーグ(日本サッカーリーグ=JSL)の創設や代表強化にしゃにむに突き進んだ時期――。プロ野球以外のスポーツで、初の全国リーグとなったJSLには片山が所属する三菱重工(現・浦和レッズ)も加わった。代表チームは65年3月の東南アジア遠征に始まり、68年9月13日までの3年間に、合計81試合を行なった。ソ連、ヨーロッパへの遠征、南米へのツアーもあり、66年のバンコクでの第5回アジア大会で銅メダル、67年9〜10月のメキシコ・オリンピックアジア予選(6ヶ国参加、リーグ戦)で4勝1分け、首位突破もあった。片山はそれらの試合のほとんどにフル出場した。

 68年10月のメキシコ・オリンピック本番での試合については、この連載でも何度か触れているので詳述は避けるが、鎌田光夫をスイーパーに置いた日本代表の守りはマンツーマンが基本で、片山は対ナイジェリア(3−1)でも、対ブラジル(1−1)でも、それぞれ相手の左ウイングでチャンスメーカーのラウルやバイロンをマンツーマンで封じ、準々決勝進出のもとを開いた。準々決勝の対フランス(3−1)の勝利は世界中を驚かせたが、相手のチャンスメーカーで俊足のドマンタンが片山のマーク相手。執拗な密着でその力を弱めた。
 3位決定戦の対メキシコ(2−0)も技巧的な相手両サイドを抑えることが前提となったが、片山は左サイドのモラレスを抑えて、銅メダル獲得に貢献した。

 当時、CDFを務めた小城得達(現・広島県サッカー協会会長)は「片山さんは1対1に強かった。当時のディフェンダーは自分の相手には絶対に負けないぞという気構えがあった。責任を果たすという気持ちが強かった」と言う。
 日本のディフェンダーは片山たちの先代ともいうべき平木隆三(故人、第1回日本サッカー殿堂入り)の頃から、激しい当たりやタックルだけでなく、ボールテクニックも重視されるようになっていた。左の山口芳忠は高校時代はFWであり、右の片山はボールリフティングでもキックでも、仲間から一目置かれるテクニシャンでもあった。しかし、それと同時に1対1のボールの奪い合いには低い姿勢、足腰の強さを生かした粘りで、大柄、俊足といった身体的な能力に勝る相手に十分対抗する力をつけた。
 そのDFの粘りを基礎に、メキシコ・オリンピックは厚く、堅く守って、杉山隆一、釜本邦茂たちの突破力、得点力を生かす策を取り、成功した。


先達・濱田諭吉の義理の甥

 片山洋は“メキシコ”の後も、71年秋のミュンヘン・オリンピック予選(ソウル・トーナメント)まで代表を務め、代表として158試合(うちAマッチ38試合)に出場。そのなかで、東京オリンピックでのベスト8、メキシコの銅メダル、第5回アジア大会の銅メダルが輝く。三菱重工ではJSLで8シーズン、107試合(3得点)出場、リーグ優勝、天皇杯優勝各1回の栄誉を持つとともに、三菱を当時のトップクラスのチームとし、今日のビッグクラブ、浦和レッズの基礎をつくるのに力を尽くした。

 高校も大学も慶応という“塾”育ちの片山には、もう一つ、大切なサッカーの縁がある。春子夫人の母親、栄子さん(故人)が慶応ソッカー部の初代キャプテン、濱田諭吉さん(1906〜44年)の妹さんであること。濱田さんはいわば義理の伯父さんにあたる。濱田さんについては、この連載でも紹介(2005年10月号)しているが、ドイツの指導書『フスバル(フットボール)』を全訳して、慶応ソッカーのバイブルとした人。その著者、オットー・ネルツ(ドイツ協会コーチ、1892〜1946年)の流れをくむデットマール・クラマーの教えを受けた片山たちがメキシコで銅メダルを獲得したのが、濱田さんが慶応ソッカー部のキャプテンになってから40年後のことだった。負けず嫌いの名DFの遺訓は、日本代表にも伝わるだろうか――。


(月刊グラン2010年6月号 No.195)

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