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古希を前に、なお現場に立つメキシコ五輪銅メダリスト 松本育夫(上)


69歳監督の元気な声

「今、練習が終わったので電話をしました。今年の11月で69歳になりますが、グラウンドでは毎日、5キロくらいは走っています。年2回、検診を受けていますが、どこも悪い点はありません」。電話の向こうから、若々しく張りのある声が飛び込んできた。
 松本育夫、1941年11月3日生まれ。メキシコ・オリンピック(68年)の日本代表で銅メダリスト。今なお、J2・サガン鳥栖の監督として現場に関わっている稀有のサッカー人。
 昨年9月10日に日本サッカー協会(JFA)の第6回サッカー殿堂の表彰を受けた功労者でもある。私が電話をしたこの日も、鳥栖のクラブ事務所には午前中不在、グラウンドに出て選手を指導していて、終わってからコールしてくれたのだった。

「子どもの頃のことを少し聞きたい」という私の問いにしばらく答えたあと、何かの弾みにサイドキックの話になって、それからそれへと技術論に発展しはじめた。「忙しい人の邪魔をしてはいけないから」とこちらから切ることにしたのだが、いくつになっても、指導の情熱が衰えることがないのに、あらためて感服することになった。


第2回アジアユース代表

 選手・松本育夫を初めて見たのは、彼が宇都宮工業高校(北関東代表)のイレブンとして、1960年の第38回全国高校サッカー選手権に出場し、1回戦で明星高校(大阪府代表)と対戦したとき。
 大会の準優勝チームとなった明星高(優勝は浦和市立高校)に延長の末、2−1で敗れたが、宇都宮工高の試合ぶりも評価され、なかでもCFの松本はスピードがあり、体もしっかりしていて、大会の優秀選手に選ばれ、この年の3〜4月にマレーシアのクアラルンプールで開催された第2回アジアユース大会に日本代表として参加した。

 松本が生まれ育った宇都宮は、関東平野の真っ只中にあって、風景は雄大で、気候風土は厳しい。宇都宮大学附属小学校に進んでからサッカー遊びを覚え、やがて夢中になり、学校から帰るとカバンを家に置くなり、ふたたび校庭に戻って日の暮れるまでボールを蹴っていた。冬の早朝にこの地方特有の霜柱が立ち、それが昼には溶けて泥濘(ぬかるみ)となるグラウンドでも遊んでいたというから、強い足腰はこうした環境の産物かもしれない。サッカーだけでなく、何でもスポーツに手を出していたが、附属中学に進んで、サッカー部に人数が足りないからと誘われて出場した栃木県大会で優勝し、優秀選手に選ばれた。

 松本を「わが校へ」と誘う高校のなかで、もっとも強い県立宇都宮工業高校を選び、2年生のときは富山国体で3位。3年の東京国体も3位となった。
 高校を出て、早稲田大学へ。ここで工藤孝一コーチ(故人、36年のベルリン・オリンピック日本代表コーチ)の厳しい指導を受け、60年6月に早慶ナイター(定期戦)に1年生ながらレギュラーで出場した。ウイングプレーを買われたのだった。
 4年後に東京オリンピックを控えたサッカー界は、デットマール・クラマーコーチをドイツから招いて、代表の強化を図るとともに、若い選手の発掘、育成に力を注いでいた。


最初の挫折“東京代表”

 同世代には明治大に清水東高校出身の杉山隆一がいた。少し上の年齢層には早大の先輩、川淵三郎(現・JFA名誉会長)や渡辺正(故人、メキシコ・オリンピック代表)ら俊足のウイング型プレーヤーがいた。CF候補には少し若いあの釜本邦茂がいて、代表FWのポジション争いは熾烈だった。
 1962年から代表に入り、欧州遠征にも加わった。大学最上級生のとき、関東大学リーグ、学生王座を制した。64年1月の天皇杯には、松本と桑田隆幸(当時・日本代表、東洋工業で活躍)の左サイドと釜本たちの早大が実業団チームを抑えて、天皇杯に優勝した。

 そんな順風のように見えた若い松本だが、この年秋に苦い現実に直面する。ひたむきに打ち込んできた目標、東京オリンピックの日本代表の選考に入らなかったのだ。
 山あり谷あり、栄光と苦難の交差する長いサッカー人生のなかでの、彼が乗り越えなければならない最初の大きな挫折だった。


(月刊グラン2010年7月号 No.196)

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