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東京五輪代表漏れの挫折を東洋工、右サイドのプレーで克服。メキシコ五輪での銅につないだ 松本育夫(中)


心は南アフリカへ

 日本代表の南アフリカでの活躍で日本全体が盛り上がり、明るくなった感があるが、その最大のきっかけはグランパスで成長した本田圭佑の対カメルーン戦のゴールであったことは、誰もが認めるところだろう。名古屋のサポーターとともに彼の成長と功績を喜びたい。
 その本田をトップに持ってきて、阿部勇樹を2DFの前に置いてアンカー役とした岡田武史監督の狙いと、選手、コーチ一丸となっての「チームの戦い」が、成果を生んだということになる。

 私事ながら、今年のワールドカップは1974年以来、記者として10回連続取材に出かける予定だったが、体調不良(脊柱管狭窄症による腰痛)のため、見送ることにした。
 サッカー専門週刊誌の連載も、これまでの『ワールドカップの旅』ではなく、『40年ぶりに日本で見るワールドカップ 心は南アフリカへ』とさせてもらった。2002年の日韓共催のときは、もちろん日本にいたわけだが、会場から会場へ飛びまわっていたから、在宅でのテレビ観戦や活字メディアを通じて遥か“現地”を味わうのは久しぶりの経験――新聞、雑誌、テレビ、ウェブサイトなどの驚くべき情報量にいささかたじろぎながら楽しんでいる。

 その代表がグループリーグを突破して、ノックアウト・ステージへ進んだのを見ると、私には68年のメキシコ・オリンピックで日本代表が1次リーグで1勝2分けで2位となり、準々決勝でフランスを倒し、準決勝でハンガリーに敗れたあと、3位決定戦でメキシコを破って銅メダルを獲得した42年前の経験がよみがえることになる。


JSLでの復活

 連載の主人公、松本育夫・サガン鳥栖前監督は、このときの銅メダリストの一人。前号で紹介したとおり、宇都宮での少年期からサッカーを始め、早くから注目されて、早大時代に代表候補に入りながら、松本は夢見た東京オリンピック代表の最終選考で外れるという辛い時期があった。すでに故郷を離れ、広島の東洋工業(現・サンフレッチェ広島)に勤めていた。高校生のときに長沼健さん(当時・古河電工=現・ジェフ千葉、後の日本代表監督、日本サッカー協会会長)に古河電工へと誘われ、本人もその予定でいたのが、会社の業績悪化で選手の採用を控えたこともあり、同郷のサッカーの先輩である小沢通宏(当時の日本代表主将)の尽力で東洋工業に入ったといういきさつもあった。その小沢も最終選考で外されたのだった。
 失意の松本が希望を取り戻すのは、1965年、“東京”の翌年からスタートした企業8チームによる日本サッカーリーグ(JSL)だった。プロ野球以外のスポーツでわが国初めての全国的リーグは、今日のJリーグの前身でもあるのだが、小城得達、桑田隆幸、桑原楽之らが加わって戦力充実した東洋工は、八幡製鉄や古河電工、三菱重工(現・浦和レッズ)といったチームを抑えて初優勝した。早大の後輩である桑田と組む東洋工のFW、右サイドは2人の突破力によってチームの大きな武器となった。

 広島というサッカーの盛んな土地に根付いたこの企業チームは、当時としては幸いなことにグラウンドを持ち、仕事が終わってからではあったが、練習によってチーム力を高めることができた。“東京”オリンピックを目指した若い大学選手たちの加入がそのまま実力アップにつながり、高速の試合展開で相手チームの脅威になった。
 戦前の慶応大黄金期の名選手、小畑実監督、小沢主将のもとで東洋工はJSLの牽引車となり、攻守の切り替えの早さが売りものとなって、日本サッカーに新しい面を切り開く。その東洋工での働きで、松本は再び代表に戻り、メキシコ・オリンピックで右サイドのウイングとして銅メダル獲得に貢献したのだった。
 しっかり守って、速い攻めでチャンスをつくる。アマチュアの銅メダルを獲得した松本育夫たちイレブンのプレーは、私には今の代表と重なって見える。


(月刊グラン2010年8月号 No.197)

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