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爆発事故の死線を越えて。J2サガン鳥栖でも明るく闊達な指導 松本育夫(下)


80年の歴史のなかでの高度順応

 今年のワールドカップ南アフリカ大会は、1930年に第1回大会が南米ウルグアイで開催されてから19回目の大会で80周年にあたる。日本代表はその節目の年に、国外でのワールドカップで初めて1次リーグを突破して16強に入った。その好成績の理由の一つに1,500mの高地での選手のコンディションづくり――高度順応の成功があった。
 ワールドカップがスタートした30年は『このくに と サッカー』の連載でも度々触れているとおり、日本サッカー協会が初めて編成した選抜代表チームが第9回極東大会(東京・明治神宮競技場=現・国立競技場)でフィリピンに勝ち、中華民国と引き分けて初めて極東の1位となった年でもある。その40年近く後の68年、メキシコ・オリンピックで日本代表は銅メダルを獲得し、アジアで最初のオリンピック・サッカーのメダリストの栄光をつかんでいる。

 この連載の主人公・松本育夫(サガン鳥栖監督)もその一人だが、メキシコ・シティをはじめとする会場は2,000mを超える高地にあって、高度順応は大きな問題――そして、その成功が銅メダル獲得の影の力の一つであったこともまた、南アフリカと同じだった。80年の歴史の中で繰り返される日本代表の戦いの中で、私たちは不思議な符合を見ることになる。

 このメキシコ・オリンピックで日本代表は1次リーグB組で1勝2分け、得点4、失点2でグループ2位となって準々決勝に進み、ここでフランスを3−1で破ってベスト4へ。準決勝は前回チャンピオンのハンガリーに敗れたが、3位決定戦で開催国メキシコを倒して銅メダルを獲得した。10月14日から24日までの11日間に6試合、1次リーグのナイジェリア、ブラジル、スペインをはじめ名だたるサッカー強国を相手のハードスケジュール。高度順応への成功がなければ達成できない成果だった。


攻めも守りも全力プレー

 松本育夫はFWの右サイド。このポジションは相手側の左サイドに個人技の優れた(左利きが多い)攻撃のキーマンが多く、従って松本には右サイドからの攻撃とともに、相手の左サイドの攻めを抑える守備の働きが要求されていた。
 日本サッカーリーグの東洋工業の左サイドの攻撃陣として、守から攻へ、攻から守への切り替えの速さで知られていた松本にとっては労は多くとも、やりがいのある働き場だった。
 オリンピックでのアジアチーム初のメダルとフェアプレー賞の獲得は、日本サッカーの名を高め、国内では東京オリンピックで火をつけたサッカー人気をさらに高めた。以来42年間、松本はコーチ、監督、Jクラブのゼネラルマネジャー(GM)などを歴任、今はサガン鳥栖の監督。銅メダリストの仲間で最も長く現場で仕事を続ける“情熱”のサッカー人として知られている。日本代表として1960年から69年まで59試合(7得点)うちAマッチ11試合(1得点)を記録し、前記の68年メキシコ・オリンピックと66年第5回アジア大会で3位と銅メダルを受けている。79年に日本で開催されたワールドユース大会の日本代表監督、さらには86年日本ユース代表監督をはじめ、京都サンガ、川崎フロンターレなどでも指導を続け、2004年からサガン鳥栖の監督(07〜09年はGM)を続けている。また、前号の写真にもあるとおり、80年代から90年代にかけてテレビ解説者としても有名だった。

 サッカー選手を辞めて10年後、83年11月にヤマハのつま恋研修所で東洋工業の研修会担当者として会の準備中に会場内で起きた爆発事故(死者14人、重軽傷者28人)に巻き込まれ、瀕死の重傷を負った。1週間の危篤状態が続きながら奇跡的に回復した話はよく知られているが、救急車の中で「サッカーを続けたいので、足だけは切らないでほしい」と言ったと伝えられている。そのサッカーへの情熱と不屈の精神は、経済環境の厳しいJ2にあってもくじけず、持ち前の明るさ、闊達さは変わることはない。
 第6回日本サッカー殿堂入りの表彰を受けた松本は41年11月3日生まれ、もうすぐ69歳だが、仲間や教え子たちは70歳を超えてもグラウンドに立っているはず――と信じている。


(月刊グラン2010年9月号 No.198)

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