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ウェイン・ルーニー(6)04−05シーズン、マンチェスター・Uへ移籍。チャンピオンズリーグ初戦でハットトリック


 キリンチャレンジカップと東アジア選手権の、日本代表2月の4連戦シリーズは、初めの2試合を0−0で終わった。点が取れないと嘆く向きがあれば、ともかく無失点で負けなかった――という見方もある。私にとっては、この期間に4試合を見られることが何より。プレーヤーにとっても、せっかくのチャンスに、自分自身がこの代表チームの中で何ができるかを確認する大事なチャンスでもある。試合に出るメンバーもベンチで注視するプレーヤーも、どんなときでも掴むものはあるし、成長の糧となるヒントもあることを忘れないでほしい。


 連載のウェイン・ルーニー、マンチェスター・ユナイテッドと、イングランド代表のストライカーは、1985年10月24日生まれだから、ただいま24歳。日本でいえば釜本邦茂がメキシコ・オリンピックで得点王となったのと同じ年齢だ。
 今シーズンはすでにプレミアリーグで20得点以上を量産している彼の成長の跡を追っているのだが、この09−10シーズンの働きを見ると、これまで培ってきたプレー、蓄積してきた技と、チームプレーの感覚がチーム戦術と見事に合っているように見える。
 ナニというポルトガル出身の、若くて素晴らしいサイド攻撃のタレントがいて、トップのパートナーにはブルガリア人のディミタル・ベルバトフという29歳のストライカーがいる。長身で速くて、それでいて、ゆったりとしたプレーのできる彼は、ルーニーとは別のタイミングのプレーを持っている。彼ら二人だけでテンポの変化があり、主として右のナニをはじめとするチームのサイドへの散らし方とサイドからの攻めが、中央の二人の力を引きたてているようだ。
 もちろん、彼とともに昨シーズンまで猛威を振るったクリスチアーノ・ロナウドがレアル・マドリードへ去ったことも大きな刺激となったのだろうが、彼にとっての条件が整ったこのシーズンは、まさに開花期、爆発期ともいえるだろう。
 ここまでに至るエバートン時代を含む彼のプレミアリーグ7シーズンを眺めるのは、まことに楽しいが、そこに彼の上のレベルを目指すひたむきさがあるのを改めて知ることになる。

 さて前号の後を受けて、2004−05シーズン。彼がEURO2004(ヨーロッパ選手権2004、ポルトガル)にイングランド代表で戦い、4得点して高い評価を受けたことは前号でも紹介したが、大会に参加したルーニーにも、また重大な転機となる。
 それは国際舞台の楽しさとレベルの高さを知ると同時に、イングランド代表選手たちが語るチャンピオンズリーグを知ったことだった。
「自分には最高の舞台の経験だったが、ベンチにいる代表の仲間たちから、チャンピオンズリーグに出れば毎週水曜日にこういう国際レベルの試合ができると聞いた。自分もそういうハイレベルな試合がしたい、と思った」

 その頃、エバートンのクラブ首脳も「ルーニーの売り時」と思っていたらしい。チェルシーのロマン・アブラモビッチ会長がルーニーに興味を持ち、マンチェスター・Uも強い関心を示した。しばらくルーニーの移籍が大きな話題となった。EURO04の最中にポルトガルのゴルフ場でアレックス・ファーガソンとルーニーの代理人が話し合ったというニュースも伝わった。
 金額が折り合わず、しばらくしてニューカッスルとの交渉話もあったが、最終的にマンチェスター・Uに決まった。総額3000万ポンドの移籍はこの夏の最高額だった。
 ファーガソンは「イングランドで過去30年間、例を見ない優秀な若者を獲得できて、とても嬉しい。これからのプレーヤーだが、私たちのクラブは若いプレーヤーを立派に育てた経験がある」と、喜びと自信を見せた。10年間に6度もプレミアリーグに優勝しながら、99年以来チャンピオンズリーグのタイトルから遠ざかっている監督にとっては、ルーニーは大きな希望となった。

 EURO04での負傷のため、ルーニーは04−05シーズンのリーグは9月25日の第7節まで休んだが、9月28日のチャンピオンズリーグD組第2戦に対フェネルバフチェ(トルコ)との試合に初出場してハットトリックを演じ、オールドトラフォードで華々しいスタートを切った。
 このあとマンチェスター・UはD組2位で準々決勝に進み、ミランの堅固な守りに敗退。ホームでもアウェーでも0−1だった。ファンニステルローイは不振で、前年から加わっていたクリスチアーノ・ロナウドもまだ爆発していなかった。ルーニーはこのシーズン、29試合に出場して11ゴール。チームのトップスコアラーになった。


(週刊サッカーマガジン 2010年3月2日号)

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